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記事一覧

アイヌ歌謡

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インターネットの動画で、アイヌ歌謡の動画を様々発見。
たいへん、刺激的だ。

琉球島唄とアイヌ歌謡は、共通の土台があるようだ。

ポストコロニアリズムの観点でとらえると、共通土台が見えてくる。

独断だが、いまどき、東京だ中央だ、何とか言っている「地方」演劇関係者は、結局近代東京の物まね以上のものは作れないと思っている。

近代が行き詰まった、百年以上を単位とする根底的変化の時代に、19世紀から20世紀にかけて支配的だった価値観にとらわれた創造をしているからだ。そういうものには、何の関心も持てない。
しかし、近代主義の枠内に、きれいに収まっているのが、若い世代に多いのは、なぜたろう。
ロートル世代より、守旧派みたいに思える時がある。

それはさておき、琉球島唄やアイヌ歌謡は、とても魅力的だ。その魅力の考察から、何らか汲み取るべき豊かな栄養があるようだ。

もっと食らいついて、味わい、いろいろ調べてみたい。
きっと、豊かな泉に遭遇するに違いない。

写真は、朝のジョギングコース途中の棚田です。

【釜】

傷を見て背筋を伸ばす

ここ二年ほど、劇列車の活動は、順調だ。

だが、また過渡期に入っていると思う。
この過渡期は、一回一回の出前公演に、それなりの交通費謝礼が出せるようになれるかどうかの過渡期だ。

それなりの交通費といっても、1ステージあたり数千円程度のものだ。仕事を休んでもらう公演の休業保障にも届かない程度のものだ。

だが、自分の芸にお金が支払われるとなると、それは地域に生きる表現者たちの、やりがいと誇りにつながるに違いない。

また地域の人々には、地域に自生した芸能に目を向けるきっかけになるに違いない。

お金がないところには、タダでいくのだ。
お金にゆとりがあるところから、寄付を募って。
簡単に、助成金とかに頼るまい。原発自治体が原発に関連する助成金に頼って、自立できなくなったように。
助成金頼みには、毒がある。
切られたら、何もできなくなる。
自分の足で立ち、大地を踏みしめて歩むのだ。

自力でお金を集め、決して儲けず、タダだって公演に行き、しかもプレイヤーには、交通費を払う体制を作っていくのだ。
行政に依存せずに。
独立独歩で。

気持ちを引き締めろ。
全く相手にされなかった、あの何年にも渡った長い日々を噛みしめ進む。

頼みにしていた団体が、公演チケットを全くさばいてくれていず、抱え込むであろう赤字に、気持ちがとられたあの日を忘れるな。

赤字の心配で気持ちが膨れ上がった時、車の後ろをポールにぶつけて傷を作った。
あれから一年半、車の傷は直さない。
錆びてみっともないが、直さない。
みっともなくてよい。あの時のあの気持ちを忘れないためには。

過渡期の今は、順調だったこの暫くを自己否定して進むのだ。

そして、次のステップへ活動の駒を進めるのだ。

【釜】

人の記憶

今日は、めくばーる「第1回チャリティコンサートin筑前町」へ。

このチャリティコンサートは、東日本大震災の復興支援として行われ、チケット500円が義援金として寄付されるそうです。

出演者も、出身地は各々ですが、今は、筑前町で何らかの文化活動をされている方々。

支援のためなら…と集まられたそうです。

また、タイトルに「第1回」とあるように、このチャリティコンサートは今後も続けていかれるそう。

先日あるニュースで流れていた、阪神・淡路大震災で被災された方の言葉を思い出しました。

「復興までに長い年月がかかった。年が経つにつれて、だんだん忘れられていくことが怖かった。」というような言葉でした。(その方の言葉と一字一句同じではありません…)

人々の記憶は、薄れていく。

だからこそ、継続していくことが大切なんですよね。

【法】

コメント一覧

チャリコン実行委員会 (08/26 23:14) 編集・削除

7月24日はおいでいただきましてありがとうござました。9月4日に第2回チャリティコンサートをひらきます。どうぞこちらもいらしてください。お待ちしております。

ブログにチャリティコンサートについて書いて頂きありがとうございました。とてもうれしいです。

稽古場を募集中!

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今度の劇団通信29号に書いているが、稽古場を探し始めている。

予算は月一万円以内。空き家募集。
できれば、朝倉市秋月。だが、こういうものはご縁なので、秋月にこだわっているわけではない。

月一万円とか、市場価格を無視した価格設定だが、ここまでしか出せないのが現状だ。

固定稽古場では、じっくりと腰を据えた作品製作ができる。
稽古場という根城を中心に、人の輪が広がることになる。

市場価格を無視した予算設定だが、あえて「稽古場募集!」のアドバルーンをあげてみよう。

劇列車は、市場価格など世間の常識から、そもそもズレている。
世間の常識の範囲にきれいに収まった集団ならば、そもそも続いてなかっただろう。
よくも(悪くも?)、人様の予想や予断を裏切って、ここまで歩んできた。

稽古場価格は、非常識な勝手な価格設定で、すぐの実現性はないと思う。

しかし少なくとも、劇列車がどんな考え方で、なぜ稽古場を探すのか、ということを、広く周知することは出来る。

そういうことで、劇列車の稽古場募集、スタートです!

【釜】

チラシ~維持会員募集

チラシイメージ

NPO維持会員募集のチラシが届きました。
維持会員とは、「NPO法人 舞台アート工房・劇列車」の活動の趣旨・目的に賛同して下さった方で、活動を支えて下さる個人の方のこと。年会費3,000円です。

劇列車は、多くの人々が舞台芸術に触れ、生きる勇気をはぐくみ、人間として成長していけるような地域社会づくりに貢献したいという想いで活動しています。

劇列車の維持会員になると、こんなメリットがあります。
①法人総会に、正会員として参加できます。
②劇列車の有料公演が、無料となります。
③劇団懇親会のお誘いや、ニュースなどの情報が自宅に届きます。

これくらいのこと…かもしれませんが、維持会員のみなさまからお預かりした3,000円は、地域に根づき草の根からコミュニティを再創造していくための活動に生かしていきます。

ちょっぴり余力のある方は、活動を手伝って頂けたりなんかするとさらに嬉しいです。
もちろん、「手伝えないけど年会費3,000円協力しちゃる!」という方もとっても嬉しいです(^^)

ご希望の方は、用紙をお送りいたします。
また、メールでも問い合わせを受け付けております。

ブログをご覧のみなさま、劇列車の維持会員として、いっしょにアートによる住みよい地域社会づくりを行いませんか?
どうぞお気軽にお問い合わせください(*^0^*)

【尚】

経済の右肩下がりで生きる

経済の右肩下がりで生きる演劇こそ、本物なのだ。

福岡のある演劇関係者の発言に、経済の右肩上がりが、演劇発展に好ましい旨のことがあった。

お金があることで成り立つ演劇は、小金持ち以上の階層の「オタク的道楽」である。
そこに「公共性」などという言葉の冠をつけることが好きな人は、金持ち演劇が演劇だと、傲慢に居直っている人なのだ(と私は思う)。

今、日本の民衆の多くは、賃金の右肩下がりの中で生きている。
私だって、そうだ。

圧迫されていく暮らしの中で、演劇なんぞにかまけておられないのが、民衆の毎日だ。
押しつぶされる心を奮い立たせて、毎日を生きている。

右肩下がりを生きるそんな民衆《私たち》に、優れたものを極めて低廉なお金で見せてもらおうではないか。

希望をともに育もうではないか。

それができない、こまっしゃくれた、どうでもよい演劇を、スキルが高いから「アート」だと持ち上げる、演劇評価は、もうたくさんだ。
そんな演劇は、うんざりだ。必要ない。

右肩下がりの民衆とともにあり、ともに楽しみ、希望を紡ぎあい、お金をとらない演劇が、いま必要なのだと思う。

それが、いま必要な民衆演劇なのだと思う。

そんな演劇を堂々と主張し、作っていこうではないか。
自作力が足りないなら、協力して作っていこうではないか。

【釜】

カナカナ、と蜩が。

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夕方、外で締め太鼓のバチを自作していると、カナカナカナと蜩が。夏の風物詩に、心も和む。

さて、午前に台本を書き、午後に劇団通信29号執筆開始。
太鼓バチの自作も、自己鍛錬の日常レッスンも出来て、ゆったりした一日でした。

今は、文楽義太夫節を聞きながら、毎日のストレッチ中。
義太夫節は、音声としての日本語の最高峰と聞いたことがある。

納得させられる語りのリズムが、心地よい。
義太夫節を唸れるわけではないが、かたり芝居の語りリズムのイメージトレーニングに、最適だと思い、同じ義太夫節を、繰り返し聞いている。

【釜】

土地の記憶と死者の口

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「死人に口なし」という慣用句は、近代になって、大手を振って表通りを歩くようになったらしい。

民俗学の本「異界談義」に、そんなことが書いてある。
「近代社会は死者を殺した」「死人が喋らなくなった、死者たちを殺して、その口を封じてしまった」とも書いてある。

けれども民衆は、死者とじかに交流をしてきたとも書いてある。

お盆には死者が帰ってくる。非業の死を遂げた死者は、早めに帰ってくるから、旧暦七月一日には「地獄の釜の蓋が開く」。
イタコは、死者の霊を招き寄せ、その言葉を伝えてきた。

その本からは離れるが、近代は、死者の口を封じただけでなく、土の記憶や異界も封じ込めて、その上をアスファルトやコンクリートで固めてきたのである。

さて、頓田の森事件を描く絵本「シイの木はよみがえった」から造った朗読劇。
現在の台本でも、2006年以来、長きに渡って演じてきた。

だから現在リニューアル中なのは、最近のブログで繰り返し書いている。

頓田の森事件は、戦争で起きた悲劇だ。
同時に、その土地に刻みこまれた非業の死者の記憶だ。

リニューアルの方向は、シイの木が語ることで、森に刻まれた記憶を伝え、非業の死者の魂を鎮める形式。それを、クリアにすることだ。

リニューアルによって、演者たちは、演じることで、土地の記憶と非業の死者たちと、深く対話することになる(してもらうことになる)。

その対話の過程が、稽古の本質であり、自らの対話を他者に見せているのが、この作品の演技である。

そしてお客様は、対話する演者たちを通じて、森の記憶と非業の死者たちと向き合い、自らの対話を開始する。
そんな公演を、造っていきたいものだ。

今回のリニューアルは、その一歩。リニューアルは、まだまだ続くだろう。

なぜなら、森の記憶との対話は、私たちを玄海灘を越えて、朝鮮までいざなう。東アジア近代史の闇にまでいざなうのだから。

頓田の森で被爆して生き残った玉山栄造くん、本名張萬相くんは、大日本帝国の壊滅(敗戦)により、解放朝鮮に戻るのだが、日本植民地支配の置き土産の側面があった朝鮮戦争にて、若くして戦死してしまっている。

張くんは、日本帝国の起こした戦争で死にかけ、日本帝国の置き土産の戦争で死んでしまった。

小さな森の記憶は、朝鮮半島まで根を伸ばし、アジア近代史が背景に横たわる記憶なのだ。

まさにローカルのなかに、グローバルが潜む。森の記憶は、グローカルであり、どの土地の記憶も、グローカルである。
そう考えている。

【釜】

シイの木・稽古回数増で臨む

本日は、シイの木の稽古をみっちり3時間。
8月5日へ向け、今できる一番のカタチを模索し試行錯誤。
音響効果の入れどころも工夫。スライド映像も差し替え。入れどこもさらに工夫したい。

働きながらの活動であるため、いつもスケジュール帳とにらめっこ。
予定していた稽古回数より1回増やすべきだとの満場一致の判断で、稽古数増で8月5日の秋月小学校、太宰府市人権講座へ臨みます。

暑い夏は始まったばかりです。

熟す前のトマト

【尚】

リニューアル台本で稽古開始

完成した「しいの木はよみがえった」リニューアル台本にて、稽古を開始。

朗読劇がより、朗読から劇へと近くなり、臨場感が出てきました。

また、台本のリニューアルに合わせて、スライドも新しい画へと。

8月5日は、午前中は小学校、午後は大人の方々と対象が様々ですが、観ていただく方の年齢によって、より伝わりやすいものにするために、スライドの内容も変化させていきます。

この「しいの木はよみがえった」が広がるにつれて、大きな期待を抱いていただけるようになりました。

それだけの期待に、きちんと応えていくためにも、リニューアルで一新、頑張ります!

【法】

次回公演は朝夜に「シイの木」

次回公演は、8月5日。「シイの木」公演。朝に朝倉市秋月の小学校で、夜に大宰府市の隣保館で。

一年ぶりに、1日に移動しての2公演です。

7月は1ヶ月間公演がないので、少しゆっくりできるかな。
と思っていましたが、「シイの木」をもっとよいものにしたいと、リニューアルに突入。

本日リニューアル台本も完成。
がんばらなくては!

いよいよ本格的夏到来。けれども、定期点検を終えた玄海原発は、再開できず。

これは、私たちの暮らしのあり方を振り返り考える暇もなく、エネルギー浪費社会に戻るよりも、よいことだと思います。

今日は、夕涼みに月でも眺めましょうか。

【釜】

沖縄ポップスの特異性

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沖縄ポップスのオムニバスCDを聞きこんでいる。

10年前だったら、コマーシャリズムに乗って紹介される沖縄ポップスを、毛色の変わったトロピカルソングと聞いていた気がする。

だが、いま劇列車では、九州民話をかたり芝居に再創造している。採譜され楽譜だけ残って忘れられた九州各地の民謡を、芝居用によみがえらせている。

そんな作業をしていると、沖縄ポップスの姿が、よく見えるようになった。

沖縄ポップスは、琉球民謡と地続きなのである。

沖縄ポップスは、九州のミュージシャンたちが、忘れたウチらの土地の民謡(村から生まれたウチらの歌)に、洋楽器を組み合わせて歌ったり、新しくオリジナルな民謡を創造しているようなものだ。

沖縄では、九州島や本州島のように、民謡が忘れられておらず、生き生きと歌われてきたがゆえに、民謡と直接地続きに沖縄ポップスが生まれたのだろう。

門外漢だが、そんな理解で大きな間違いはあるまい。

沖縄は、ヤマト世からアメリカ世、またヤマト世へと、植民地的支配を受けた土地である。

日本文化やアメリカ文化が優位的に流入し、自前文化が劣位におかれた土地である。

つまり、コロニアリズムに翻弄され、「優位」文化への同化を求められてきた土地。

そこに生まれた琉球民謡と地続きの沖縄ポップスは、沖縄のしたたかな自己主張だと理解できる。

ポストコロニアリズムの観点で眺めてみると、その特徴がよくわかると思える。
そこに、沖縄ポップスの特異性がある。

劇列車の九州民話かたり芝居。
お客さまとして想定しているのは、子どもたちと親子。

未来を担う子どもたちに、ウチらの島に育まれた物語と歌を届ける。
そのしごとで、人々とつながりあう民衆演劇。

でも、造っている私たちにとっては、心の内面や嗜好性まで、中央や欧米近代に同化された者たちが、「私たちは何者であったのか」を再発見していく、共同作業。
私にとっては、同化されて見失っていた自己の回復作業でもあるのです。

だから、ヤマトやアメリカに同化されながら、琉球であることを失わない心性から生まれた沖縄ポップスに、強く惹かれてしまう。

(北の土地で、シャモに同化され、言語すら奪われたアイヌの人々が、アイヌの歌や踊りで、自己を取り戻していく作業をされてあると聞きます。
そのことにも、強く惹かれます。)

【釜】

シイの木もさらなる成長へ

本日は、仕事を終えて太宰府まで高速でひと走り。
8月の人権講座で上演させて頂くため、事前打合せです。

待ち合わせは夜19時。
太宰府市教育委員会ご担当者H様をはじめ、遅い時間ながらも対応して下さったみなさま、ありがとうございました。

写真は、太宰府に赴いた際、近くの境内で撮影したもの。
涼しい夏を呼ぶ風が吹いていました。

さあ、「シイの木はよみがえった」もさらなる成長へ。
明日もがんばるぞ~!

ご神木

【尚】

すぐれたものこそ、高いお金は間違いだ

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すぐれたものこそ、安いお金で見せるべきだ。

チケット料金千円として、月収入30万円の人間と、10万円の人間がいる場合、千円の負担率格差は、三倍である。

そのことに無頓着な「すぐれたものには高いお金を!」と主張する人々は、心のどこかで「演劇がお金持ちの享受する娯楽、または演劇オタクの娯楽」でよいと考えている人々である。
〈この判断は間違っているか?〉

大事なことは、すぐれたものを、できるだけ安く、多くの人が享受できる仕組みを造ることなのだ。

劇列車は、文化やアートから疎外された民の子どもたちから生まれたグループだ。
すぐれたものに、お金を払って嬉々として群がる人々を、お金がないから、指をくわえて眺めた子どものなれの果てが率いるグループなのだ。

「すぐれたものに高いお金を」という考え方には、瞬時に、お金のある人間の傲慢さを感じとってしまう。

すぐれたものは、ただで、お金のない人々にも平等に公開されるべきだ。お金持ちの占有物にしてはならない。
心の底から、そう思う。

では、どうやって公演は、採算をとるのか?
お金のある人々に高く支払ってもらって、ない人々に安くしようではないか。

月収入30万円の人には1500円で。10万円の人には500円で。
それで負担率は、公平に近づく。

劇列車は、実質的公平による機会均等をめざす。

今の私たちが、すぐれたものを作っているとは言わない。
だが、そんな実質的公平負担の公演を試行し、かつ皆様に喜んでもらえるよう、遥か先まで続く精進に、毎日励んでいる。
それが劇列車だ。

写真は、今日のステキな夏の夕焼け。

【釜】

土地の記憶を台本とするために

民話かたり芝居台本は、土地の集団記憶物語の台本化である。
ここで言いたいことは、劇列車が旗揚げの年以来、上演を続けてきた「土地の悲劇の記憶物語」のことだ。

現台本で、まる6年経った。
改定の時期なのだが、改定の方向は、「土地の記憶の継承」だ。

それに相応しいスタイルを探して、いろんなものにアンテナを張っている。

インスピレーションのために、津軽三味線若手演奏家のCDも、借りて聞いてみた。
だめだ。聞くに値しない。
演奏が個人の才覚の範囲を、出ていない。
津軽三味線を、個人の才覚で洋楽と混合しただけの平凡さ。
演奏とコミュニティーの繋がりと緊張が、CDからは感じられない。

韓国のマダン劇動画を見た。
これは刺激的だ。

マダン劇は1970年代から80年代に、独裁との闘いの中から生まれたらしい。

韓国の開発独裁時代の支配的文化は、ヤンパン文化、戦前の植民地時代に流入した日本大衆文化、戦後のアメリカ文化から成り立っていたそうだ。

自国の封建的支配者、侵略者文化である日本大衆文化、占領者からもたらされたアメリカ大衆文化は、開発独裁を支えこそすれ、民衆の解放に、いささかも寄与しなかったと聞く。

これらの支配的文化に対抗して生まれたマダン劇は、西洋仕込みの近現代劇を、民俗文化に依拠するものに作り変えていったという。

マダン劇は注目するに値する。

土地の記憶物語の台本改定のために、もう少しいろいろ調べてみよう。

【釜】

映画「アンダンテ」

昨日、ご招待していただいた試写会にて、ある映画を観させていただきました。。

「アンダンテ〜稲の旋律〜」という映画です。

会場でいただいたチラシには、「食と農と大地、そして人間再生の物語」と書かれていました。

主人公の女性が、めぐり逢った人々とのつながり、そして農業に携わる中で、ひきこもりの生活から必死に自分を取り戻していく物語。

「アンダンテ」とは、音楽用語で「ゆっくりと。歩く速度で。」という意味だそうです。

自分の思うようには生きていけないけど、何度も何度も転びながら、自分の速度で生きていいんだよ…というメッセージが伝わってきました。

「ひきこもり」の問題、そして食料自給率という現代の日本が抱える問題。

この問題を、田植えから稲刈りまで、季節の移り変わりと共に、一年かけてつくり上げられたそうです。

心打たれる映画でした。

10月1日(土)には、石橋文化センターの共同ホールにて、上映会が行われるそうです。

ぜひ、皆さんも一度、ご覧になってみてください。

【法】

りんけんバンドのおもしろさ

カナカナカナ…と、ひぐらしが鳴きはじめた。

夜明け前から鳴くひぐらしの声で、目がさめる季節がはじまった。

さて、ひょんなことから、琉球の「りんけんバンド」動画を、ネットで見る機会があった。

驚いた。
美しい琉球衣装に身を包んだ女性ボーカルと、エイサー衣装で身を固めた男性ミュージシャンたち。

歌詞すべて琉球方言の琉球音楽。

振り付けは、エイサーやカチャーシーから。
一緒に踊る老若男女の観衆たち。

これは、琉球の民衆音楽であり、もはや[琉球人]であることの自己主張だ。

沖縄は周知のとおり、ヤマトに征服され、アメリカに占領された。

ヤマト世では、琉球方言が学校から追放された。
アメリカ世では、銃剣とブルドーザーで土地をとられ、フェンスで囲われて、基地が作られた。

米軍相手に英語で歌うロックが、興隆を極めた。

占領した相手が持ち込んだ楽器を使いながら、新しい琉球音楽を創造したのが、りんけんバンドの歩みなのか。

音楽には門外漢だが、刺激的で深く考えさせられた。

九州人の私たちは、りんけんバンドの動画に見られる琉球のように、寄って立つ民俗文化を持たない。

九州になかったわけではない。
豊かな民俗文化があったことは、ブログで触れてきたとおり、現認してきた。

私たちは、琉球のようにしぶとく民俗文化を保ち続けずに、ある時点から、捨ててきたのだろう。

その結果、極論すれば、地域の老若男女が共有する歌や踊りすら、もはや失している。

都市には、民俗文化とは異質な消費文化が、大手を振ってまかりとおって久しい。

逞しくも絢爛とした琉球を表現するりんけんバンドのおもしろさに、目を奪われながら、そんなことを考えた。

さて劇列車は、失われきた九州民俗文化のかけらを集めている。
かけらを、じっと凝視して、かけらとして飛び散る以前の全体像を想像している


植民地文化に毒された私たちは、かけらを凝視して、そこから創造する。

【釜】

7月になって。

昨日のブログ上の表現で、訂正しておきたい表現がある。

「トラディショナルストーリー」という表現を、「フォークストーリー」と変えたい。

トラディショナル=伝統的な。
フォーク=民衆的な。
民話の英訳は「フォークストーリー」であった。

民話の持つイメージは、私にとってトラディショナルなフォークストーリーだが、民話は今もって生成しつつある。

伝統的な刻印を刻んでいたり、伝統的な民話の枠組で、現代民話が語られていたりするが、民話は現在進行形の民衆的集団創作物語である。

だから、トラディショナルストーリーを、フォークストーリーと表現したい。

【釜】