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微かな希望が…

2012.06.20 (水)

6月15日金曜日夜、大飯原発再稼働反対で、11000人の市民が首相官邸を包囲。退廃したマスメディアは報じないか、ごく短く過小評価したニュースを流した。

だが11000人の市民が、再稼働反対のために、首相官邸を包囲した事実は覆せない。この国で、市民が闘いはじめている。80年代以降、この国ではもはや有り得ないと絶望していたことが、また起きはじめている。

昨日「ジンタらムータ」と名乗っいる音楽家たちが、脱原発そぞろ歩きの先頭に立って「不屈の民」や「勝利を我らに」を演奏している動画を発見した。励まされる。しなやかに闘いに立ち上がっている。

ほんのチョッピリ、希望を垣間見ている。生きていたら、人とつながって何かを変えていける…という希望を。20歳台に抱いていた希望を、再び育むことができるかも…と、心がほんの少し膨らんでいる。

闘いは一人から始まる。けれど、視野の中に闘う人が見えると、希望が生まれるのだ。

翻って、前回ブログで述べた「ある演劇関係者」のブログでの主張に、きちんとわかりやすく批判をしておきたい。彼は福岡で「制作者」を自称しているがゆえに、福岡で活動する私としては、断固とした批判を放っておかなくてはならない。

1;政府とそれにつながる政治家を批判する人々が、政治家を「ショッカー」としか見ていないとは、何事か。
これは彼の政治認識の幼稚さを、自ら暴露しているに過ぎない。としか理解できないほどの幼稚さだ。

2;国家が国民を犠牲にすることがあってもやむを得ない、とは何事か。

国民を犠牲にする国家は、誰のための国家か。何のための犠牲か。そもそも犠牲は必要だったのか。そういう前提なしで、犠牲はやむを得ないという思想は、もはや国家主義思想である。彼は無自覚にかもしれないが、自ら国家主義者であることを開陳しているわけだ。

3:政府を批判する人々の政府観を「ショッカー」並みと見なし、国家のために国民の犠牲はやむを得ないという主張に対し、繰り返して言っておく。
政治を「仮面ライダー」で語る幼稚さは、政治的実践すらしたことない未経験で無知の反映であろう、と推察する。国民の犠牲やむを得ずという国家主義の主張は、自らが理由の如何を問わず、国家の犠牲になってもよいと覚悟している場合にのみ主張できるものだ。そういう倫理観が、主張の前提になければならぬ。
その覚悟なき「犠牲やむを得ず」の主張は、結局酷薄なエゴイズムではないのか。

幼稚な国家主義の演劇もあるだろう。だが、私は演劇をこう理解している。

虐げられてきた人々が、言葉と心を発見することで、生きていくことを肯定できるための表現活動だ、と。
人々が不平等なしがらみから一時外れ、対等な関係を試行してみる実験だ、と。

福岡で、そこそこの影響力があるだろう自称「演劇制作者」のに対し、きちんとした批判が出ないとしたら、私は彼のブログを読んだ「福岡で演劇をしている人」を、信用しない。

【釜】