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生きることに値する社会を

新聞で報じられている『大阪母子餓死事件』。母28歳、子3歳。『最後にお腹いっぱい食べさせてあげられなくてごめんね』のメモが残されていた。なんともやりきれない、なんともやるせない。昨日から何度も、そのことを考えている。

私たちは今『タヌキとゆうれい』作品づくりにシャカリキだが、夏からの新作予定は『鬼ばばあの糸紡ぎ』だ。

大阪母子餓死事件を思うにつけ、なんとしても『鬼ばばあの糸紡ぎ』を作り上げる。

この昔話では、父親に先立たれ母子家庭になった子どもが主人公だ。その子は母も亡くして孤児となる。母は亡くなる前に麻糸の紡ぎ方を子に教えるのだが、幼い子は紡ぎあげることが難しくて、糸紡ぎができないでいる。糸を紡ぎあげて売りに行かないと、子に待ち受ける運命は餓死だ。

そこに鬼ばばあが現れて『働け、働かないと食べてしまうぞ』と、子を脅かしながらも、子の代わりに糸紡ぎをしてあげる。そうしている間に、幼い子も糸紡ぎが出来るようになる話。これが『鬼ばばあの糸紡ぎ』だ。

幼い子が働かないと生きて行けないことに、現代人は反発を覚えたりする。しかし、誰も振り向かない気にも止めない幼い孤児のところに鬼ばばあは現れて、子どもが自分で生きていけるまで支えるのだ。鬼ばばあは、天涯孤独の孤児の心に、この世の中は生きていくに値するものなんだ、と温かい希望の灯を灯す。

この国の大人たちは、本当に子どもたちのことを考えてなくなった。政治も経済も大人たちの都合。教育だって大人の都合や見栄に振り回されている。
その影で、生きる困難を抱えた親たちが、どれほど子どもを虐待しているのだろうか。苦しんでいる親や子どもに、どれだけの手が差しのべられているだろうか。上から目線ではなく。虐待をする親を責めてはならぬ。子どもを愛していても、生きる困難は一方で虐待を生むのだ。私はそんな環境で育ったから、よくわかる。大切なことは、困難を抱えた親や子どもが生きる希望を持てること、それが大切だ。

困難に生きる子どもに、虐待を受け世の中と上手く折り合いがつけられないでいる子どもたちに、届けたい。私たちのつくる『鬼ばばあの糸紡ぎ』は、君の心に届き君の心を温めることが出来るのかい?と問いたい。

大阪母子餓死事件を受けて、なんとしてもなんとしても『鬼ばばあの糸紡ぎ』を作り上げる。亡くなった親子への、拙いながらもせめてもの供養だ。私たちは下手だと笑われてきたけれど、ナニクソ!と思って人並み以上の努力をしてきたけれど、私たちを笑う人々はゴマンといる。私たちがまともに本気に主張すると、笑われたりする。『下手クソのくせに』と。だが、きちんと言う。餓死した母子の供養に、困難に生きている親と子のために『鬼ばばあの糸紡ぎ』を作る、と。

【釜】

7月に初演会

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秋月に稽古場をお借りするようになって、ひと月が経とうとしています。

平日の夜は、輝く月の下で…
休日の午前中は、緑萌ゆる青空の下で…

この様な半野外の稽古場で稽古していると、公共施設にはなかなか戻りたくなくなってきます(>_<)


さて、「タヌキとゆうれい」の初演会を7月にすることが決まりました。

夏休みが始まる時期に、夕すずみをしながら、楽しいひとときを過ごしてもらえるよう、稽古をしております。


写真は、稽古場のすぐ横にある「池田屋」さん。

お蕎麦とかしわ飯は、絶品ですよ〜!

【法】

稽古場に上る月

今日は稽古日。
稽古はじめとともに、だんだんと月が上ってきました。
月下での稽古。風流ですね。稽古では、もっと上手く、もっともっと上手く、と…。小手先の演技、小手先の上手はいらない。
怪演でよい。もっと本気に。

【釜】

民話継承の社会的文脈

民話とは民衆による口承文芸だ。
私は朝倉市の2DK市営住宅で、母から大分県三重町の民話を聞かされて育った。(この民話経験自体、高度経済成長期の特徴的体験であっただろう。口承文芸としてまだ生きていた民話を、それも大分の民話を2DK市営住宅で聞いていたのだから。)

そして民話との自覚的出会いは、20歳の時だった。柳田国男の『遠野物語』を読んだのだ。衝撃的な出会いだった。

まず、民話が民俗学の研究対象となり、日本人の原像である『常民』の心性を探るサンプルとなっていること。そして民話のもつ集団的想像力の文学性の高さにも、目を見晴らされた。

私たちはどこから来たのか。そもそもヤポネシアに住んできた多様な民衆は、どんな精神世界を生きてきたのか。民主主義社会を生きる市民として、どんな民話を継承し、どんな民話の命を断たないといけないのか。
民話は、私たち民衆文化の、全うに向き合うべき一つの歴史的結晶であった。

こんな視点は、いつの間にか本当に語られることが少なくなった。戦後民主主義がこの国の民衆の進路を示す輝きを失っていったことと、どこかで関係しているようにも思う。
そしていつの間にか、民話が取り上げられる社会的文脈は、『ふるさと自慢の郷土愛育成』のためであることが多くなった。
そのことを否定はしない。コミュニティーの崩壊が叫ばれる中、人工的行政コミュニティーである市町村を単位とした擬制ふるさとを愛することも、大切なことかもしれない。
ただ二つ批判的にもの申したい。
民話は玉石混交であり、鑑識眼をもって臨まないと、民話の持つ豊穣な力に接近していけない。また民話をふるさと自慢のための化石と理解すると、いまも生成されつつある口承文芸、現代の民話を見落としてしまう。
(地縁コミュニティーの解体は民話生成を困難にしてはいるけれども…)

さて、民話を題材に演劇を造る私たちは、様々な誤解と無理解にぶつかることが多い。
それは民話を継承する社会的文脈の多数派が、現在圧倒的に『ふるさと自慢の郷土愛育成』にあり、私が民話と出会い問題意識を持った社会的文脈は、それこそ圧倒的少数派になっているからだろう。そう考える。ふるさと自慢の観点でみると、私たちの創造は何をしているのかわからないはずだ。

だが、私たちはどこからきたのか問わずにいられた軽薄な時代は、もうハッキリと終わったのではないだろうか。
私たちはどこに行くのか、五里霧中の時代に突入している。そこにふく風は毒々しく悪意に満ちている。
私たちが捨てきた民衆文化のかけらを、化石のごとく大切にして『ふるさと自慢』をしていればよいわけがない。
捨てられてきた民衆文化に、全うに向き合い、これから消費とは別次元の民衆文化を創造していくことが必要な時代なのだ。
私たちが人間らしく生きていくために。
そのための文化の担い手は、気取った芸術家であってはならない。額に汗して働く民衆でなければいけない。
作られる文化は、働く民衆を解放する精神的生産物でなければいけない。

民話からの劇づくりに、私はそんな気持ちを込めている。
働く民衆の一人として、眠いをこすりつつ自作面を削る。自作の脚本を書く。ストレッチをする。走る。台詞を覚える。人間らしく生きていくために。
そんな生真面目さを笑うことが格好良かった時代も終わった。
流行らないことを愚直に努力する愚か者を笑う者は、過去となりつつある享楽的な消費社会を生きる者である。
けれども、道は遠い。

【釜】

ミニライブ・2回目

今日は、秋月道ばたミニライブの日。
2回目の今回は、「秋月着てみん祭」と重なっての開催となりました(*^_^*)
1日中あいにくの雨模様でしたが、多くの方々が出入りされていました。

そして、今回は和太鼓の団体や民舞の団体ともご一緒させて頂きました。
私たちは、お芝居に組み合わせてお囃子やエイサーを行っていますが、和太鼓や民舞を専門とさせてある方々の演奏や演舞を見ていると、私たちの強みと課題の両方が見えてきたように感じます(^^)

それもこれも、「秋月ろまんの道」というオープンスペースを間借りして稽古や公演を行う機会を頂いているから、受けることができた刺激です。
来月へ向けては、どんな刺激がまっているのやら。
日々の稽古にも熱が入ります(*^0^+)

【尚】

気持ちいい風、秋月稽古

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昨夜の稽古は、半月に照らされた稽古。見上げると月。山々の新緑。吹き抜ける初夏の風。なんてステキな稽古環境。
写真は稽古風景ですが、阿蘇山系や九州山地の山あいに残っている農村舞台のように見えてますね。

先日の日曜日稽古で、フラリ覗かれた豊後大野市のファミリーが『ステキな建物ですね』とおっしゃいましたが、まるで農村舞台のように見えるということでは、ホントに同感です。自然に開放された半野外舞台で演じられる歌舞伎や文楽。それを人々は、野外に座り込んで飲食を楽しみながら見たのです。それが農村舞台。農村舞台は、おらが村の劇場だったわけです。
阿蘇外輪山の南麓、熊本県清和の農村舞台では、今も保存会の手で薪文楽が演じられています。杉林に囲まれて月に照らされながら、保存会の演じる文楽を見るのは、楽しい体験です。(実際に見に行きました)

さて、稽古が始まった『タヌキとゆうれい』初演が決まりました!写真の稽古場(秋月ろまんの道)で、7月20日(土)19時から。題して『夏休み!夕涼み!民話劇を見よう会〜タヌキとゆうれい』
観覧無料。初演後に、ご希望の方は、そのままバーベキュー大会。こちらは大人1500円、子ども500円(未就学児無料)。

夏の黄昏時に、半野外で演じられる民話劇。夕涼みしながら見てみませんか?親子でも、お友達とお誘いあわせでも、お一人でも。地元の子どもにも見てもらえたら、嬉しいですね。

ろまんの道の一角の新しい稽古場。そこは面白いことが出来る可能性に満ちた空間なのです。

【釜】

第2回秋月道ばたミニライブ

お囃子エイサーの約15分のミニライブ。福岡県朝倉市秋月の『ろまんの道』にて。
5月19日(日)
『着て民祭』というイベントの中での実演ですから、時間は未定。
秋月は風光明媚な山里。ドライブがてら、フラリ寄ってみませんか?
観覧無料。投げ銭あり。よければ投げてください。

【釜】

チラシリニューアル!サポーター会員募集のご案内

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新しい維持会員(サポーター会員)募集のチラシが届きました。
私たちの活動を、より分かりやすく伝えたいとの視点からつくりなおしたチラシです(*^_^*)

劇団通信をご購読いただいているみなさまへは、近々お手元にお届けいたします(^^ゞ
よかったら、ご一読くださ~い(*^0^*)

【尚】

開放感ある稽古場で

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現在、新作「タヌキとゆうれい」と「お囃子エイサーミニライブ」を稽古中。

今月から始まった秋月での稽古。

公共施設を借りていた完全に室内の時とは違う開放感に溢れています。

晴天の時は、と〜っても気持ちが良いです♪

観光客の方もたくさん!

今日は、神楽の盛んな大分県の豊後から来られていた観光客の方と、ちょこっと交流もあり、野外稽古場ならではの面白さがありました〜(*^o^*)

【法】

タヌキとゆうれい

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新作『タヌキとゆうれい』稽古に入った。

20分短編劇としては、今までで最も高いレベルの脚本となっている。演技も狭い空間を活用した様式が求められる。台詞術も必要だ。現代日本語を使用しているかに見えて、ほぼ地域語。その地域語は、現実社会の地域語ではなく、劇を成立させるための様式性をまとった劇言語である。
つまり会話をしていれば、劇がそれなりに成立する現代ストレートプレイでは全くない。お客様にどう聞こえて、どんな印象を受け渡すか、という語りが本質となっている。形の上では会話だが、本質は語りなのだ。
その証拠に、独白、傍白がたいへん多く、そのタイプの台詞を多用することで、ナレーションを排除した造りになっている。

仮面や人形の製作技法の向上も、求められている。

『タヌキとゆうれい』は、独特のひとりよがりでない、独自表現の域に入っていくステップアップ作品である。
夏の初演に向けて、厳しくも刺激的な『造り』がはじまった。このチャレンジにこけてはならない。達成すべきステップアップなのだ。

【釜】

秋月での稽古、はじまる。

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五月晴れの美しい季節となりました(*^_^*)
ですが、まだまだ夜は肌寒い。

さて、秋月での稽古がいよいよ始まりました。
秋月ろまんの道オーナーのご厚意で、場所をお借りしてのスタートです。

新作台本「たぬきとゆうれい」の読み合わせ、それからお囃子の圭子。
新作「たぬきとゆうれい」は、夏に試演会を予定しています。
この稽古場でできたらいいなぁ、と秋月でのアイデアがふくらみます(*^0^ゞ

写真は、稽古の様子。
こんなステキな場所で、稽古スタートです♪

【尚】

仕上がった!仮面第二作目

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仮面製作スキルを上げて、劇中で使う仮面を魅力的なものにしていこう!私たちの劇づくりを『人形と仮面と人のコラボレーション劇』にしていくために。

そうした仮面造りの第二作目が出来ました!現在上演中の『へっぴりよめさま』の『にわか面』の代わりになるもの。旅人の爺様が被るものです。

神楽面の製作技法を援用して、胡粉とにかわを15回塗り。染料は顔力。障子紙で作った紙面には見えない質感に仕上がりました。

まだ習作段階。とくに仮面造形に弱い。
新作短編劇『タヌキとゆうれい』で使う予定の三作目仮面は、この二作目の造形的弱点をおぎなった粘土型ができあがっています。地道な紙張りにかからなくては。

私たちの劇は『児童演劇』。親子で楽しめる作品づくりにチャレンジしています。
それは『子どもの感情と論理』に乗っかった造りを大切にして、大人の論理を押しつけないこと。そして大人の鑑賞にたえる劇。

そこには一朝一夕にはいかない難しさがあります。そのための技法向上の一つとして、『仮面と人形の美的価値の向上』を位置づけているのです。

さあ、仮面三作目にがんばろう!

【釜】

憲法の生まれた日に

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五月晴れ。今日は日本国憲法が生まれた日だ。私にとって日本国憲法は、五月のそよ風のようなものだった。高校生の頃、日本国憲法の暗記に熱中し、徴兵制度を憎み、恐怖した。自分が徴兵年齢から脱した時、ホッと安堵したことを思い出す。

この国の今の政治家たちの多くは、今のために原発を動かしたがる。今のために、排外的憎みを煽り憲法を変えたがる。
そこには、未来の大人となる子どもたちの幸せを祈る気持ちがあるのだろうか?
彼らが子どもの教育を口にする場合は、競争を煽り忠誠心を叩きこむ対象として。

いま大人たちは、子どもたちの幸せをもっと考えなければならない。そう思えてならない。
それは今の快適さに汲々とするだけでなく、今と未来の幸せを一緒に考えていくことなのだから。

子どもに関わる者として、そもそも憲法を専攻した人間として、決意を新たにしよう。
この国の未来の大人に、人殺しを強制するような憲法にしてはならない。子どものために憲法を守る。
怠惰と怯惰を越えて、しっかりやろうではないか。この国の心ある大人たちよ。
今日は憲法集会に出かける日。そして今日から秋月で稽古がはじまる。

【釜】