コロナ感染第三波がやってきたようです。
第一波と第二波では、いわゆる自粛警察がのし歩きました。強い同調圧力のある日本社会では、コロナウィルス感染に対する「全体主義」が社会を覆ったようでした。
その時につくづく思ったのですが、日本人の大人には「個人」が確立していない人が多いようです。
周りをうかがい、人からバッシングされないように、周りと同じようにふるまう。
「個人」という言葉の意味は、自分の頭で考え、オリジナルな言葉を持ち、自己の責任において行動する人間、そんな意味で使っています。
ところが、日本人の多くは、多数派の中にいることで安心安住してしまう。自分の頭で考えない。ないしはTVで言っていることを、自分の考えと錯覚する。それで満足する。全体主義の中にいることに自覚的になることがない。
これは75年前の敗戦時以降、暫くは日本の社会科学で重要な研究テーマであったはずです。「日本人が内面において、個人が未確立なのはなぜか?。」それを巡って、たくさんの論文や本が書かれました。
しかし、いつのまにか、個人の確立もないまま、このテーマは立ち消えになっていったのでした。
そして今、私たちは「利己的な人間の形成」を、「個人の確立」と錯覚しているのではないでしょうか。
コロナ感染第1波第2波では、そんなことを考えさせられたのでした。
さて、第三波が襲来してきている中で、是非とも書いておきたいことがあります。
それは、第一波第二波の時に子どもの「文化享受権」を含めて、「子どもの体験がたいへんに喪われた」ということです。
「命を守る」との美名の下、自粛の嵐が吹き荒れ、全体主義的風潮が蔓延するなか、そんなパースペクティブで語る人を、ほとんど見かけることがありませんでした。
もちろん「命を守る」ことは第一義的に大切にすべきことです。問題は、それがヒステリックに叫ばれれば叫ばれるほど、他の見方や考えを、全体主義的に抑圧してしまい、社会も個人も思考停止に陥ってしまうことです。
個人が未確立のまま育った大人たちが振りかざす全体主義的で薄っぺらな「自粛」正義。それが、大通りを大手をふって、ノシノシと練り歩く。これは極めて危険なことです。
繰り返しますが、「命の大切さ」は第一義的課題です。間違いありません。一方で、その第一義的課題を、他の思考への抑圧と思考停止の錦の御旗にしてはならないのです。
最近の新聞記事に、こんな記事がありました。
或る母親の声を紹介した記事でした。
緊急事態宣言で学校に登校禁止となった小学校5年生の子どもが「僕にとって5年生は、一回だけだよ。」と泣き出してしまい、つられて小学校2年生の娘も「あたしにとっても2年生は一回だけだよ。」と泣き出した
という内容でした。
子ども期の発達速度は、たいへんに早いものです。小学校5年生の時期に体験する数々の体験のの多くは、小学校6年生での体験では遅いのです。小学校6年生には、6年生としての体験が必要です。したがって子どもにとっては、今が大切なのです。今の喪失を未来で補えるという考えは、大人の身勝手な発想です。
そもそも体験というものは、子どもの非認知的能力(テストで計れない力)を形成する大切な土台なのです。この一年の子どもの体験喪失が、将来どんな影響となって顔を見せてくるのか、誰にもわかりません。
「命を守る」という美名で飾られた思考停止によって、踏みにじってよいものではないはずです。
第3波到来が確実視されるなか、日本の大人たちは、再び自粛全体主義に飲み込まれて、子どものかけがえのない体験価値を踏みにじっていくのでしょうか?
それとも、子どもと大人の命を守りながら、一方で子どもの体験も守るというバランスのとれた態度の形成が可能となるのでしょうか?
私は、第2波の時と同じく、後者の立場に立ちたいと思うのです。また日本の大人たちにも、子どもの立場から考える思考もしてほしいと思うのです。
【釜】
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コロナ感染第3波に考える
- Date:2020/11/28(土)10:47
頓田の森ぴーすきゃんどるナイト2021
- Date:2020/11/24(火)01:47
頓田の森ぴーすきゃんどるないと2021の準備が始まっています。
先週の日曜日、今年の3月をふまえて来年どうするかを、集まって話し合いました。
森に爆弾が落下してから75年。
頓田の森事件を体験された方々、あの時代を生きた方々は、そのほとんどがお亡くなりになられました。直接体験を聞く機会は失われつつあります。
記憶を継承していくために、どのようなことができるのか。
「場」がもつ記憶というものが、確かにあると思います。
直接体験を語ることができる“人間”が残念ながら減ってきているいま、事件が起こった直接の“場所”が発する意義とは。
「戦争遺跡」という言い方が適切かどうか迷いますが、3月27日その日に、森に集うことが――
その森で一発の爆弾で亡くなった31名の子どもたちの記憶を新たにすることが――
大きな意味をもつような気がしてなりません。
2021年の開催に向けて、準備が始まっています。
【尚】
日本ウニマ加盟
- Date:2020/11/14(土)21:38
葉っぱも赤くなり、黄色くなり、晩秋を迎えつつあります。地上の喧騒と離れたところで、確実に季節は巡っています。
さて劇列車は、淡路人形芝居ととらまるパペットランドを見学する研修旅行(スタディツアー)も無事に終え、日常の稽古と会議を進めています。
稽古場では、創造的で充実した時間が流れています。
演劇集団の本質は、1+1は2ではなく、3以上になる創造性にあります。逆に言えば、1+1が2以下にしかならない集団には未来はないのです。
劇団は人数ではない。人数では劇団の勢いは決して計れません。
さて今日は、昨年からのお誘いもあって、劇列車は「日本ウニマ」(国際人形劇連盟日本センター)に代表が個人加盟したことをお知らせします。
私たちの人形劇表現が、それなりの水準に達してきていることは、自分たちでもわかります。
一方で、この段階に留まっていてよいはずないのです。集団の発達を止めて唯我独尊に陥っている劇団は珍しくありません。
私たちは違う。まだ学び続ける必要があります。
また劇列車は、構成員が「人形劇に親しむ」ことを目的とはしていません。ご存じのことと思いますが、劇列車はアマチュアの趣味的な集団ではないのです。
私たちのいうアマチュアとは、プロ以上に精進する者のことです。アマチュア性を甘く見てもらっては困る。
劇列車は、人形劇の質を求めるとともに、その質と人形遣いの生き方でもって、子どもの発達に関わろうとする劇団です。
世間では「子どものために」と言えば、「暮らしの片手間に」という理解をされる方々が多いようです。
アマチュア=趣味、子どものために=片手間という理解は、ほんとに困る。大切なことが伝わらない。伝えようと努力しても伝わらない。
そんな理解をされる方々に言いたい。
「あなたの子どもや孫が、片手間に保育や教育をするといった意識のアマチュア保育者やアマチュア教育者に預けられたとするならば、そんな保育者や教育者を、あなたは信頼できますか?」と。
子どもの発達に関わることは、片手間ではできません。真剣勝負なのです。場合によっては、関わる大人の方が壊れることだってあり得るのです。
アマチュア性も子どもの発達に関わることも、甘くみていては手酷いやけどを負いかねません。
これは声を大にして言いたいと思います。
ですから、私たちはもっと学び、もっと試行錯誤し、もっとよりよい作品づくりに精進していくのです。
私も定年退職をして3年目になりました。
しかし、私は第2の人生を自分の趣味に生きるなど、まっぴらごめんです。そんなこと、やりたくもないのです。
私に趣味などありませんし、持とうとも思いません。そもそも趣味など持ちたくない。
それでは、私は何ををしたいのか?
私は自分の限界に挑戦していきたいのです。限界に挑戦することを毎日の日常にしていくと、はじめて限界を越えることが出来はじめる、と思うのです。
一つひとつの困難から逃げない。困難から逃げると逃げ癖がつきます。逃げ癖が身についた人間に、果たして限界への挑戦など出来るのでしょうか?
経験的に言って、それは無理です。
脈絡があるようなないような、少々の個人的毒舌も含めた文章を、長々と書いてしまいました。
さて、日本ウニマから届く様々な資料は、劇列車全体に共有され、きっと劇列車の創造に好影響を与えるものと思います。
今、劇列車はどんどん先へと歩んでいるのです。
【釜】