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コロナ感染第3波に考える

2020.11.28 (土)

コロナ感染第三波がやってきたようです。

第一波と第二波では、いわゆる自粛警察がのし歩きました。強い同調圧力のある日本社会では、コロナウィルス感染に対する「全体主義」が社会を覆ったようでした。

その時につくづく思ったのですが、日本人の大人には「個人」が確立していない人が多いようです。
周りをうかがい、人からバッシングされないように、周りと同じようにふるまう。

「個人」という言葉の意味は、自分の頭で考え、オリジナルな言葉を持ち、自己の責任において行動する人間、そんな意味で使っています。

ところが、日本人の多くは、多数派の中にいることで安心安住してしまう。自分の頭で考えない。ないしはTVで言っていることを、自分の考えと錯覚する。それで満足する。全体主義の中にいることに自覚的になることがない。

これは75年前の敗戦時以降、暫くは日本の社会科学で重要な研究テーマであったはずです。「日本人が内面において、個人が未確立なのはなぜか?。」それを巡って、たくさんの論文や本が書かれました。
しかし、いつのまにか、個人の確立もないまま、このテーマは立ち消えになっていったのでした。
そして今、私たちは「利己的な人間の形成」を、「個人の確立」と錯覚しているのではないでしょうか。

コロナ感染第1波第2波では、そんなことを考えさせられたのでした。

さて、第三波が襲来してきている中で、是非とも書いておきたいことがあります。

それは、第一波第二波の時に子どもの「文化享受権」を含めて、「子どもの体験がたいへんに喪われた」ということです。

「命を守る」との美名の下、自粛の嵐が吹き荒れ、全体主義的風潮が蔓延するなか、そんなパースペクティブで語る人を、ほとんど見かけることがありませんでした。

もちろん「命を守る」ことは第一義的に大切にすべきことです。問題は、それがヒステリックに叫ばれれば叫ばれるほど、他の見方や考えを、全体主義的に抑圧してしまい、社会も個人も思考停止に陥ってしまうことです。
個人が未確立のまま育った大人たちが振りかざす全体主義的で薄っぺらな「自粛」正義。それが、大通りを大手をふって、ノシノシと練り歩く。これは極めて危険なことです。

繰り返しますが、「命の大切さ」は第一義的課題です。間違いありません。一方で、その第一義的課題を、他の思考への抑圧と思考停止の錦の御旗にしてはならないのです。

最近の新聞記事に、こんな記事がありました。
或る母親の声を紹介した記事でした。
緊急事態宣言で学校に登校禁止となった小学校5年生の子どもが「僕にとって5年生は、一回だけだよ。」と泣き出してしまい、つられて小学校2年生の娘も「あたしにとっても2年生は一回だけだよ。」と泣き出した
という内容でした。

子ども期の発達速度は、たいへんに早いものです。小学校5年生の時期に体験する数々の体験のの多くは、小学校6年生での体験では遅いのです。小学校6年生には、6年生としての体験が必要です。したがって子どもにとっては、今が大切なのです。今の喪失を未来で補えるという考えは、大人の身勝手な発想です。

そもそも体験というものは、子どもの非認知的能力(テストで計れない力)を形成する大切な土台なのです。この一年の子どもの体験喪失が、将来どんな影響となって顔を見せてくるのか、誰にもわかりません。
「命を守る」という美名で飾られた思考停止によって、踏みにじってよいものではないはずです。

第3波到来が確実視されるなか、日本の大人たちは、再び自粛全体主義に飲み込まれて、子どものかけがえのない体験価値を踏みにじっていくのでしょうか?

それとも、子どもと大人の命を守りながら、一方で子どもの体験も守るというバランスのとれた態度の形成が可能となるのでしょうか?
私は、第2波の時と同じく、後者の立場に立ちたいと思うのです。また日本の大人たちにも、子どもの立場から考える思考もしてほしいと思うのです。

【釜】