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人形劇であそぼ!申込受付終了しました

杏の花も満開になりました。まだ葉をつけていない大木が、春風に枝をそよがせています。そよぐ枝を眺めていると、思わず時のたつのを忘れます。

さて、3月21日開催「人形劇であそぼ!~つくって、みて、あそぼ」(場所…朝倉市総合市民センターピーポート甘木)が、募集定員に達しましたので、お申し込みを締め切らせていただきます。

コロナウィルス感染防止のため、会場スペースにゆとりを持たせております。よって追加お申し込みを受け付けることが出来かねます。
どうか御理解をお願い申し上げます。

来年も朝倉地域での人形劇ワークショップは、継続したいと考えております。
また、今年7月18日日曜日には、久留米市石橋文化会館小ホールにて、新作人形劇「どんぐりと山猫」上演予定です。

今回「人形劇であそぼ!」のお申し込みに間に合わなかった皆様、御検討いただければ幸いです。

【釜】

パペットシアターPROJECT見学お申し込み開始

梅に雪が積もっています。雪混じりの寒風が吹きすさんでいますが、そこにもかすかな春の匂いがふくまれているようです。もうすぐ春ですね。

さて、パペットシアターPROJECT見学御案内です。

【この企画の本質】
パペットシアターPROJECT企画は、子どもの文化資本や社会関係資本の蓄積(体験によって蓄積される体験的価値の蓄積)に寄与します。

(ここでは「体験的価値の蓄積」と「文化資本や社会関係資本の蓄積」を、便宜上ほぼ同義の意味で使っています。)

【企画意義の背景】
ここは、少し理屈っぽくなりますが、御容赦ください。

文化資本蓄積は、人間の社会への関わり方に大きく影響を与えます。
ひいては幸福度に影響を与えるということが、様々な研究者によって異口同音に指摘されています。

この事は、国立青少年教育振興機構の研究でも裏付けられています。様々な体験の多い子どもほど、生きる意欲が高まるということが、実証的研究であきらかにされています。

ところが、これらの体験的価値の子どもへの蓄積が、実際の社会では極めて不均衡に偏在してしまっています。
実際の社会では、家族の階層化と貧困の世代的再生産によって、貧困が幾重にも織り込まれています。
それが、子どもの文化資本蓄積不均衡に結びついています。

その結果、文化資本の蓄積が専らテレビとマンガとゲームだけという子どもがいる反面、一方では様々な習い事や様々な芸術観賞機会に恵まれた子どもがいるのが現実です。

【企画を誤解されないための補足】
私たちは文化資本蓄積機会を平等にしたいなどと、単純なことをいっているわけではありません。
そもそも、文化資本蓄積のあるなしが人間の値打ちに直結し、個人の富の蓄積に直結してしまう社会は、やっばりおかしいと思うのです。

しかし、文化資本蓄積(体験的価値蓄積)は、人間の心の発達につながります。
この蓄積は、人間が人間らしく成長していくために、必須の心の栄養なのです。
ヒトという生物が人間になっていくためには、心の栄養がたっぷりと注がれなければなりません。

もちろん、心の栄養が不十分だから人間としての成長が未成熟になるといっているわけではありません。

人間は、足りないものがあれば他で補います。
例えば、眼が見えない人が聴覚を研ぎ澄ますように。
心の栄養が補給されなければ、人間はなんらかの方法で補おうとするのです。例えば学校に行くことに恵まれなかった人が、耳学問がとても上手くなるように。
このように、人間という存在は不思議な可能性に満ちています。

それにしても、まずは様々な要因によって、文化資本蓄積(体験的価値蓄積)から遠ざけられている子どもたちには、その機会を提供すべきだと考えます。

【企画のねらい】
●到達目標
上記のような趣旨で、一度は人形劇鑑賞を楽しんでもらえる機会をつくる。それが到達目標です。

●私たちの願い
「つくりだす喜びというものが確かにある」ということをからだでわかってほしいと思います。それが私たちの願いです。

【人形劇鑑賞とは何か?その豆知識】

●人形劇鑑賞とは何だろう?

人形劇鑑賞も、やってみるのと同じくらい能動的行為です。自身の広義の意味での学びをつくりだします。
その意味で鑑賞行為とは、テレビを受動的に視聴する行為と本質的に異なる行為である、といえます。

●人形劇の特徴
人形劇とは、工作の喜び、フィクションをつくりだす喜び、それを集団で表現するという喜び、そんな演劇表現と造形表現の両形態にまたがった総合的表現形態です。
その鑑賞体験を最低一度はもってほしいと思います。
それは「百聞は一見にしかず」のことわざどおり、大きな意義があると思えるのです。

【鑑賞後のこと】
もちろん、鑑賞のみで終わっても、それは素敵なことです。
もし鑑賞した子どもたちの中から、「人形劇で遊んでみたい」などの願望が生まれてきたら、それは自分たちで創造する喜びをつかみたいという衝動の現れだと思います。ほんとうに素敵なことだと思います。

【御案内】
さて、具体的な御案内です。
この企画の第一回を3月28日(日)久留米市金丸コミュニティセンターで開催します。
・時間
13時からと15時からの2回公演。開場は15分前。
・演目
民話人形劇「ちょうふく山のやまんば」。
・助成団体
筑後川コミュニティ財団「子ども・若者応援助成金」。
・見学対象
日頃から「子ども食堂」運営に努力されてある大人の皆様。
・見学内容
実際の鑑賞会進行の様子を御見学いただき、人形劇を子どもとともに鑑賞いただければと思います。

・見学のお申し込み
・HPお申し込み欄から・電話09082228928
・上記連絡先へのお問い合わせも出来ます。いろいろご質問ください。

※パペットシアターPROJECTでは、「子ども食堂に集う子どもに観賞機会提供する」を目標に、今後も活動していきたいと考えています。(来年度助成採択の場合の活動です)。

※コロナ感染防止を目的とした会場使用定員規制のため、恐縮ですが見学お申し込みは先着順各回2名までとさせていただきます。

【釜】

人形劇であそぼ!募集開始しました

めっきり春めいてきていますね。

さて、「人形劇であそぼ!~つくって、みて、あそぼう」(子どもゆめ基金助成企画)参加受付をはじめました。

■期日3月21日(日)
■時間13時30分~16時30分。
■場所朝倉市総合市民センターピーポート甘木。
■費用子ども300円、大人400円。

■内容
・劇列車の人形劇「ちょうふく山のやまんば」観劇。(舞台裏見学含む)
・発泡スチロールを使った簡単な人形劇人形工作体験。
ご自分で作られた人形を使って、簡単な人形劇あそびにチャレンジしてみましょう!

「人形劇であそぼ!」は、人形劇をみたことのない親子の皆さんや、やったことない親子の皆さんに向けた、体験ワークショップです。

人形劇の実際を観て、人形劇人形を創ってみます。きっと楽しい時間を、親子で共有できると思います。

日頃、多忙で子どもとふれあう時間をとりにくいお父さんやお母さん。
子どものあそびが、ゲームに偏り過ぎていると心配してあるお父さんやお母さん。
参加してみて、楽しい創造的な時間を過ごしてみませんか?

誰でも参加できて、参加のハードルも高くないワークショップ、それが「人形劇であそぼ!」です。

※追記:三密回避出来る余裕あるスペースでのワークショップです。
コロナウィルス感染防止対策を実施します。参加を御検討の皆様、御協力をお願い致します。

【釜】

どんぐりと山猫はどんな物語か?

2月になりました。冬の星座オリオン座の南中時刻もずいぶんと早くなりました。梅も開花し、菜の花も花ひらくようになりました。

さて、新作「どんぐりと山猫」も少しずつ輪郭を表しはじめました。人形の身体行動の明確化や、登場人物たちの行動論理、感情の肉付けが始まりました。そして視角表現の輪郭の明確化。
以上の事柄の様々な試行錯誤。

そして思うのですが、やはり人形劇(演劇)も芸術一般も哲学なのですね。哲学では、自らの生活や感情や思考を、普段とは違った角度からとらえてみることで、「信じて疑わないあたりまえの常識」をいったん相対化してみます。それが哲学的思考なのです。
言いかえれば、自己をがんじがらめにしている社会的網の目を、いったんほどき、結び直す行為であるといってよいものです。

もちろん芸術は狭義の哲学ではありませんが、広義の意味で哲学行為であるといえるのです。
また哲学的思考の表現は、論文に限らす音楽や演劇や絵画としても表現されます。

例えば、民俗芸能である「神楽」も、自然界へのアニミズム的感受性と自然界との折り合いのつけかた(いいかえると世界観)を土台にした民衆芸能です。

「神楽」は村落共同体を基盤として、村落共同体が共有する世界観を舞っているのです。
つまり、神楽とは、村落共同体が共有する世界観の表現であるわけです。
神楽の機能は、村落共同体の結び直しにあるのでしょうが、神楽の本質は、共有された世界観の集団的表現にあるのだと思えます。

(ここで言っている世界観は、世界の意味付ける見方のことです。論理化されていない情意的なものも含みます。哲学には世界観が伴いますので、ここでは哲学と世界観をほぼ同じ意味と了解して、話しをすすめます。もちろん哲学の守備範囲は、世界観の認識が土台となって、様々なテーマに分岐していっているわけですが…。)

「どんぐりと山猫」は、宮沢賢治の哲学の文学的表現作品です。
この作品が納められている童話集「注文の多い料理店」全体が、彼の世界観の文学的表現集であるといってよいと考えます。
そうすると、あの有名な序文の意味も鮮明にみえてきます。

「けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。」

ほんとうのたべものとは、法華経と科学と社会的実践を土台とした彼の世界観(哲学)そのものを指しているのでしょう。
もちろん文学的味わいを指す言葉でありましょうが、賢治という人物の文学に向き合う姿勢を考えると、文学的意匠のみが「ほんとうのたべもの」であるなどと考えていたとは、とうてい思えないのです。

そう考えると、賢治自らが書いた「注文の多い料理店新刊案内」広告文の意味も、新たな視角から新たな顔を見せてきます。

広告文は以下の通りです。

童話「どんぐりと山猫」は「必ず比較されなければならないいまの学童たちの内奥からの反響です。」

童話「注文の多い料理店」は「糧に乏しい村のこどもらが、都会文明と放恣な階級に対するやむにやまれない反感です。」

このような作者本人文章で広告された内容は、それぞれの童話本文のなかには見当たりません。(あくまで字面を読めばという範囲での話しですが。)

そもそも「注文の多い料理店」に、村のこどもらは登場しません。
「どんぐりと山猫」に、直接一郎くんの心の内面が描かれているわけでもありません。

しかし、明らかに賢治の作品創造の動機は、広告文に書かれたところにはあり、彼の内部にある世界観(哲学)から生まれた表現衝動にあったと思われます。

では「どんぐりと山猫」から読みとれる彼の哲学とは、どんなものなのでしょうか。

そのとっかかりとして、上述の広告文に書かれた「必ず比較されなければならないいまの学童」という文章を使ってみたいと思います。

まず「比較される」と書いてありますが、比較するには、比較のための物指しがあってはじめて成り立ちます。
比較する際に、物指しは必須なアイテムなのです。

私たちが慣れ親しんだ比較の物指しは、数字による比較でしょうか。偏差値、合格率、生産性、GDPなどなど…。

「どんぐりと山猫」では、「まるでなってないのが一番えらい」という言葉で、それをひっくり返されてしまいます。

とするならば、主人公一郎が提示したこのナンセンスな物指しが、比較の物指しとして優れている、と賢治は言いたいのでしょうか?

そうは思えないのです。この物語は、ナンセンスな物指しを提示した一郎くんに、それから「(誘いの)はがきは、もうきませんでした。」
と物語は締めくくられるのです。
到底、賢治がこのナンセンスな物指しに同調していたとは思えません。

とするならば、「どんぐりと山猫」は、よく言われがちな「まるでなってないのが一番えらい」という「でくのぼう讃歌」ではないのです。

(彼の晩年の詩的メモ「雨ニモ負ケズ」には、確かに倫理としてのでくのぼう志向が強く見られます。ですが「どんぐりと山猫」に、潜在的にでくのぼう志向があったとしても、それが作品の主題となっているとは思えません。
そもそも「注文の多い料理店」童話集は、イーハトーブ年代記なのです。年代記として、賢治の世界観が表現されています。そこに、ぽかの掲載作品群の主題と異質な「でくのぼう讃歌」の作品を、童話集に入れるとは思えない。それも童話集の冒頭作品として。)

また「どんぐりと山猫」が、でくのぼう讃歌ならば、「やっぱり、出頭すべしと書いてもいいと言えばよかったと、一郎はどきどき思うのです。」と、一郎くんが後悔するはずもないのです。
しかもこの文章は、童話のいよいよ最後の結語です。

さて、「どんぐりと山猫」読者に内在するであろう通俗観念は、主人公一郎くんにナンセンスな「まるでなってないのがえらい」という物指しでひっくり返されます。
そして作者賢治自身の手によって、一郎くんの提示した物指しも、物語の最後にひっくり返されるのです。

では、何が一番なのでしょうか?賢治はどんな物指しで一番を決めればよいと言っているのでしょうか?

いえいえ。「何が一番よいのか」と考えること自体が、物語ては否定されているのでしょう。
山猫裁判長は「裁判も三日目だぞ。いい加減に仲直りしたらどうだ。」とばかり繰り返すのです。山猫は、ひたすら「仲直り」をけしかけます。

裁判長自らが、「どんぐりの一番を決める裁判」に、物指しを示さないのですから、これでは裁判が混乱するのもあたりまえです。ここがポイントです。山猫には一番を決める物指しをもつ発想がないのです。

さて、一番に価値があるという価値観は、どこから生まれたのでしょうか。少なくともその価値観が広範囲な人々をとらえるほど、魔力をもったのは、いつからなのでしょうか。

日本史を振り返るならば、歴史は明治期に「学校」が生み出したものだということを教えてくれます。
つまり、明治=近代=学校の等式が、「一番がよい」という価値観を生み出したものの正体でしょう。
(哲学者鶴見俊介氏は、「学校」が生み出し、日本社会に根付いた明治から続く「一番がよい」という「一番病価値観」を繰り返し批判してきました)。


とするならば「どんぐりと山猫」は、一番を生み出す物指しを、逆の価値観でひっくり返し、さらにその逆の価値観もひっくり返してしまう物語なのです。
「近代」をでんぐり返してみるまで至るかもしれない、広く深い射程をもった物語なのだと思うのです。

では、問いを重ねてみます。
なぜでんぐり返してみないといけないのでしょうか?その動機と理由は?

そこに「内奥からの反響」があるからです。比較される人間の心の奥底で反響する何か。
木霊のような微かな反響。
どこか妙に気になる、懐かしくも手が届かない反響。

読者に、この反響(木霊)に耳を澄してもらうこと。
このイーハトーブ裁判騒動物語を読んで、心に細やかに広がる微かな反響に、耳を澄ましてもらうこと。
それが「どんぐりと山猫」が書かれた動機と理由だと思うのです。

では賢治は、読者になぜ耳を澄ましてもらいたいたのでしょうか?

それは、彼にはその反響が聞こえているからです。
「私に聞こえる反響を、他者にも聞いてほしい。もしかしたら、価値あることかもしれないから。」ということだったのでしょう。

彼は「注文の多い料理店」序文に、このようにも書いています。

「これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。」

賢治は、林や野原や、虹や月あかりから、たしかに聞いていたのです。
もちろん、それが聞こえてくるためには、資質、知識、感受性というものが必要でしょうが…。

さて、「どんぐりと山猫」という童話文学に流れる世界観(哲学)を、あぶり出してみました。
原作を脚色するには、原作の本質をつかむことだと言われますが、私は「どんぐりの山猫」の本質を、このようにつかんでみています。

稽古とは集団作業です。創造に携わる集団では、まずはこのようなことが議論されなければならないと思えます。
「議論による共有」。ここから稽古がはじまります。

稽古とは、台詞を覚えて動きをつけることではありません。
稽古とは、議論と集団思考作業が土台となっていなくてはなりません。これは飾りものではなく、真剣勝負の作業です。
真剣勝負にならないと、この作業は意味をなさないのです。

そのうえで、行動の論理や感情の流れを追っていくのです。そして、行動や感情を、モノである人形の動きに変換していくのです。
そのために表現の仮説をたて、何度も実験が繰り返し試されます。
議論と共有という土台にも、何度もたち戻ります。
一方で、舞台装置や人形美術、衣装、音とあかり、そんな作業も進みます。一日一日が大切に使われないと、先に進めません。

そうして、じょじょに人形劇としての「どんぐりと山猫」が姿を現してくるのです。

【釜】