雨に桜が咲くなか、昨日「人形劇であそぼ!~つくって、みて、あそぼ」を終了しました。足元の悪いなか、参加された皆様、ありがとうございました。
朝倉地区での企画でしたが、募集定員いっぱいの参加をいただきました。
人形劇「ちょうふく山のやまんば」上演と、舞台と人形見学、簡単な劇人形の工作までの3時間。
参加された皆様、楽しんでいただけたでしょうか?
またボランティアで手伝っていただいた皆様、ありがとうございました。お礼申し上げます。
さて、「ちょうふく山のやまんば」新バージョンも、いよいよ初演を迎えました。
今後は出来上がった作品を、楽しんでやることが大切です。
上演を楽しむとは、「舞台に立つ自己に陶酔することを楽しむ」いわゆる演劇型の楽しみ方ではありません。(これはアマチュア演劇によく見られる楽しみ方です)。
人形劇では「人形というモノを物語に添って蘇生させる」ことを楽しむのです。
人形劇とは演劇という表現形態のひとつですが、俳優劇と様々な違いがあります。これもそのひとつです。
モノに感情を宿らせ、モノに動きを発見させていく人形劇は、物語から生まれる感情(感性)と人形に動きを発見させていく知性と、その双方の調和のとれた表現です。
ここに人形劇の楽しみがあります。
俳優が「上達する」という発想では、人形劇の生き生きとした舞台は生まれません。
「上達する」の主語は人間です。人形劇では、俳優という人間が人形遣いとなって後景に退きますから、俳優が上達しても人形は生き生きとは動かないのです。
あたりまえですね。
それではモノである人形が上達するのでしょうか?
モノはやはりモノですから、上達するはずありません。上達するのは、やっぱり操る人間です。
「なんだ、やっぱり人間が上達するんだ」。
そう発想してしまうと、恐ろしい落とし穴に落ちてしまうのです。
それはどんな落とし穴か?人形劇の魅力が薄れていく恐ろしい落とし穴です。
あくまで人形劇では、モノ自身にその動きを発見させていくのです。
そのために、人形遣いは、脚本の咀嚼からはじめてそれを血肉化(身体化)をしておかなければなりません。
脚本を身体化した人形遣いの意識を反映して、モノである人形は自然に動き出すのです。
動かすのではない。動かしてやろうと思っても、モノは人形遣い自身ではないのですから、思うように動いてくれるはずがない。
そのように、物語の感情に添って、モノがどう動くかを発見していく試行錯誤は、初演したからといって終わるものではありません。ずっと続いていくのです。
このことを演劇では「ブラッシュアップ」と言います。ですが、あまりに手垢にまみれた言葉であって、言わんとする意味が歪んで伝わりがちです。ですから、この言葉はあまり使いたくありません。
さて一方では、仕込みばらし時間の短縮試行も続きます。
「ちょうふく山のやまんば」は、現在のように機材一式、ハイエース1台で運ぶことを想定して作られてはいません。
従来どおり運搬車両3台を想定して作られています。
ですから、1台に荷乗するのに30分かかっています。3台分の資財が1台に集中するのですから、当然そうなります。
ここから先、5分程度の短縮は可能かもしれませんが、それ以上はムリそうです。
代わりに、仕込み時間とばらし時間の短縮をまだ図る必要があります。
現在荷降ろしから2時間かかっている仕込み時間を、さらに10分程度縮めたい。
現在50分程度かかっているばらし時間を、さらに5分程度縮めたい。
とするならば、荷降ろしから荷積みまでで、15分程度縮ります。
人形劇遣いの負担軽減と、充分なリハーサル時間確保によって巡回上演の質を確保したいと思うのです。
これも、一つひとつはとても地道な作業の連続です。
「紐で縛っているところをマジックテープ代用で可能か?」「安全ピン止めという非効率を、どうやって効率的な方法に変えるか?」などなど。
細かい試行錯誤に、時間もお金も、まだまだかかります。そんな試行錯誤の集積から、時間の短縮が生まれるのです。
肝心なことは、荷降ろしから仕込み、ばらしと荷積みまでの一連のプロセスとして、上演をトータルにとらえる観点です。
ここには、まだまだ課題が山積しています。
ひとつひとつ解決していきたい。
やりはじめなければ、いつまでも終わらない。
やりはじめたら、いつかは終わる。
さあ、次は28日日曜日、バペットシアターPROJECTでの「ちょうふく山のやまんば」上演です。
その前に27日土曜日は、頓田の森ぴーすきゃんどるナイトです。
【釜】
ツイート