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チケット販売終了

今日は、今年初めてひぐらしの鳴き声を聞きました。もう夏がやって来ています。

さて、7月18日(日)の第22回定期公演人形劇「どんぐりと山猫」が入場定員に達しました。つきましては、チケット販売を締め切ります。

あっという間に入場定員に達してしまいました。これからのお申し込みを御検討の皆様、ほんとうに申し訳ございません。
コロナウィルス感染防止のために、入場定員を平常に比べて大きく減らして観客募集をしておりました。
どうか状況を御理解をいただきたく、お願い申し上げます。

次回「どんぐりと山猫」手打ち公演は、来年3月6日(日)に、「春のおやこ人形劇場」(久留米市シティプラザCボックス)にて予定しております。
入場料金は、今回7月18日定期公演と変わらない予定です。
「どんぐりと山猫」を、よりブラッシュアップしてお届けする決意をしております。
今回お見逃しになった皆様、よろしければ御検討いただければ幸いです。

さて、「どんぐりと山猫」は、いよいよ音響を入れた稽古が始まりました。
昨日の通し稽古をビデオ撮影してみてチェックしたところ、予想以上の出来ばえに驚いています。
うれしい驚きですね!

もちろん、7月18日の本番を迎える前に、修正や改善を図りたいところは多くあります。
しかし、本番をお客様に喜んでいただけるのでは…という感触を掴んでおります。

考えてみると、それはあたりまえのことなのでしょう。
脚本に妥協しないこと。
サブテキストを土台とした演技のキャッチボールに愚直に妥協しないこと。
舞台装置や人形美術にこだわり抜くこと。
つまり、許される限りの全力を投入してきたのですから、出来てあたりまえなのです。

一方で、上演チームの力が一つに融合してきたからでもあります。
人形劇の創造は、チームの一人ひとりの知的、感性的力が、「ああでもない、こうでもない」というケンケンガクガクの議論を経て創造的に発酵して、はじめて作業が進むのです。
一人ひとりの自由な考えを踏まえた議論が建設的に出来る必要があります。
稽古の歯車が噛み合わうことも必要です。
1+1は3以上になるのが、創造的チームワーク なのだと思っています。

私たちは、もっと表現の幅を広げ深めていきたい。
念を押しておきますが、それは自分たちのためではありません。
文化や芸術から排除されてきた人々と共によりよく生き直すために、表現を追求しているのです。「共に歩むための武器」としての表現を手に入れたいと思っているのです。
そして、現実に手に入れつつあると考えています。

作品に価値を感じるかどうかは、それぞれの人生史をもつそれぞれの人間の感性と理性に左右されます。
ですから、私たちがどんなに面白いと感じても、全く面白くないと感じる方々もいらっしゃることでしょう。

それでも私たちは、できるだけ多くの方々に、ともに「希望を育む」人形劇を届けたい。そのためにがんばっていきたいと思うのです。
【釜】

稽古雑感②

前回のブログは、メモ書きで書いたため、いささかわかりにくく、散漫な文章になってしまいました。
しかし、そのようなことを感じ考えていることは事実なのです。
伝わりにくい表現になってしまったという問題はあるのですが…。

さて「どんぐりと山猫」では、様々な実験をしてきました。

舞台もそう。1ミリ単位でのパーツの組み合わせに四苦八苦し、仕込みバラシの簡便さを担保しながら、舞台美術としても妥協しない。両立しがたいものを両立させるのに苦労しましたが、なんとか及第点には達したようです。

人形もそう。差し金使いや、胴体のない人形(胴体は布だけの人形)を造り、今までにない動きの効果をどう創りあげるのか?
人形美術担当者の苦労がありました。
特に馬車別当の顔の造形は、二転三転しました。人間社会の価値観の外にいる人間(馬車別当)の顔を、どう造形するか?

そこでアジアやアフリカ先住民の仮面文化を参照系としたのですが…。
そこに美意識の違いと文化の違いであることを発見†
農耕を基盤とする東アジアの日本文化にドップリと浸かった私たちは、アジアアフリカ先住民文化の感性を持ち得ていない…。
ガツン!とやられました。先住民仮面文化の模倣ては、馬車別当は造形できないのです。
考えてみると、あたりまえですね。
私たちの手持ちであるなけなしの感性では限界がある。そのことを自覚出来た次第です。

人形演技では、徹底してサブテキストを入れていかないと、劇が面白くならないことを痛感…。

人形劇は集団創造です。サブテキストの重要性を共通土台としてシェアすることが、人形表現の質を担保します。
集団創造と個人創造の歯車の噛み合わせが大切だと痛感しています。
この歯車の噛み合わせがうまくいくと、稽古は俄然創造的に面白くなるのです。
それが、私たちの今までにない人形劇表現を生み出すのです。

脚本は、現在第6次稿。ラストシーンに手が加わったために、第7次稿が上演台本となる見込みです。
脚本は、劇作家養成講座8月例会に提出予定です。いろんな観点から意見をいただくと、ブラッシュアップの方向性が見えてくるのでは、と思っています。楽しみです。

そんな一つひとつが組み合わさって、作品が出来上がりつつあります。
大切なことは、一つひとつにこだわり抜くことなのでしょう。
こだわり抜くことは、私たち自身の限界を超えていかなければならないために、苦しい作業です。この苦しい作業に背を向ければ、私たちの表現は、そこで止まるのです。

そうやって造ってきた「どんぐりと山猫」。一口にいって今までを超えた作品になりそうな予感がしています。

ザワザワとした高揚感がチームに醸成されてきています。
「あれもしなきゃ、これもしなきゃ」といった状況に追い込まれていますから、ヘロヘロになっています。ですが、この高揚感が稽古を支えているように思えます。
これが実際の上演成果につながるかどうかは、これから次第なのですが…。

作品が出来上がるにつれて、課題も見えてきていますが、これらの課題は初演後に、ブラッシュアップを図ることになりそうです。

【釜】

稽古雑感

梅雨晴れの一日です。たまに晴れると、もう夏空ですね。

今日は稽古で考えたことを、メモ書きしてみます。長くなります。

†昨日は、音も明かりも入れない初の素通しを行いました。

原作「どんぐりと山猫」では、一郎くんは影が薄い存在です。そもそもタイトルは「どんぐり」と「山猫」なのです。「どんぐり」と「一郎」でも「山猫」と「一郎」でもないのです。

一郎くんが影が薄い存在だからといって、主人公ではないということはできないでしょう。
物語冒頭と最後は、一郎くんで始まり、一郎くんで終わるのですから。

原作では影の薄い一郎くんは、一体どんな少年なのか?

これを、物語の構造と行間から読みとることが、読者に求められているように思えます。
ですから、脚本では原作で描かれなかった一郎くんの家庭の様子を付け加えてみたのです。

この人形劇を最後まで通してみると、森世界に対する抑圧者である一郎くんは、抑圧的な人間社会の中では、弱者であることが、すっきりとわかってきました。
(だって一郎は、子どもなのですよ。)

さて、抑圧的社会が弱い者に与えるプレッシャーというものがあります。
いろんなことが強制されます。始末に負えないことは、強制する側が強制していると気づいていないことなのですが…。

強制する社会に馴染めない弱者は、強制されることを受け入れなければ、マイノリティになって行きます。社会の片隅に押しやられていきます。
しかし、片隅に押しやられても、人間としての誇りを秘め、それを承認してもらいたい承認欲求を強く内包して生きているのです。

だから、社会の中で抑圧されている人々は夢を持つのです。
この夢とは、なけなしのプライドを懸けている、生きる希望そのものでしょう。

それでは物語のラストに、一郎くんにどんな夢を持たせるのか?
苦しんで来ました。
長いこと、苦しんできました。

やっと昨日、出口に到着したようです。
一郎くんの持つ夢は、安易な白日夢であってはならないはずです。安易な白日夢は、簡単に抑圧的社会によって押し潰されます。

一郎くんが社会との格闘の中で、ボロボロになりながら手離さない夢。
人間としての誇りそのものであり、それをなくしては生きていけなくなる夢。

その夢は、一郎くん自身が見つけるものであり、他者から与えられるものではありません。
しかし、どうしても、一郎くんを夢を獲得するスタートラインにまでは立たせてみたかったのです。
なぜなら、そのスタートラインとは、上述の「希望」そのものなのですから。

その長い創造上の悪戦苦闘。
やっと突破出来ました。いや、突破出来そうな確かな感触を得たという方が正確でしょうか?
充実した稽古でした。

†演技の基本は、サブテキストにあり。

劇中の登場人物たちは、劇の中で生きています。とするならば、登場人物がしゃべる全ての言葉(台詞)は、何らかの感情の上にしゃべっているはずです。

実際私たちは、何らかの感情に立ってしゃべっています。全く無感情にしゃべっているにせよ、その無感情には、無感情を産み出す感情があるのです。

登場人物の全ての台詞に、その発語の土台となる感情を明確にしていくことが必要なのです。
実際、現実に私たちは無意識にそれをやっているのですから。

架空の人物を演じるには、自覚的にその作業を行っていかないと、いつまで経っても、感情の裏付けは出来ません。

サブテキストは、演技の土台であり、相互干渉行為(対話)の土台です。

演劇の面白さとは何か?
それは、サブテキストの土台の上に成り立つキャッチボール(相互干渉行為そのもの)そのものなのだと思うのです。

稽古とは、俳優(人形遣い)の相互干渉行為を構築することです。
それは、それぞれが造ってきたサブテキストを擦り合わせていく行為でもあるのです。
今回稽古で、もっとも重視しているところです。

†人形劇はアニメーションに似ている。

人形劇は演劇の一形態です。そう考えます。
しかし、実際造っていく過程では、アニメーションに似ているところが多いなぁと思うのです。

私はアニメーション製作に携わったことがあるわけではないので、本を読んで想像して、物をいっているのですが…。

しかし、似ていてあたりまえなのでしょう。モノを動かす人形劇にしても、絵を動かすアニメーションにしても、物体を動かすことで成り立つわけですから。

だから、サブテキスト構築、キャッチボール構築だけでは、演劇は面白くなっても、人形劇はそうならない。

モノを蘇生する。
ここも人形劇稽古の大切な部分です。

†いやぁ、大変です。

人形劇を造りあげるには、俳優劇の何倍も時間もお金もかかります。

その事をもって、人形劇製作現場に参入する人が少なくなっていると指摘される方々もいます。

確かにそのとおりでしょう。
一方で、こうも思うのです。

手間暇と苦労を背負って造る舞台芸術と、造形芸術の融合形態。つまり人形劇は、人間の発達可能性を拓く最適な表現媒体ではないかと。

もし、日本人がこの手間暇を厭い、簡便な表現媒体ばかりを好む人間ばかりになれば、それはこの国の精神的滅亡につながると。
(この手間隙をかける対象が、人形劇でなくてよいのは当然です。手間隙をかける地道な行為を厭うことが問題なのです。)

ある新聞である政治学者がいっていました。コロナ禍とオリンピックは、この国の政治(マクロポリティクス)を、常識の範囲外に連れだそうとしていると。いや、この国の政治は、常識の範囲外に出ようとしていると。

確かに。そう理解しないと理解出来ないナンセンスなことだらけです。

そして、上記の政治学者は延べていました。「この国は誰も想像出来ないような動乱期に入りつつある」と。

私からみれば、この動乱がどんな動乱になるのか想像もつきません。
ただそれは「希望」であると見えています。
このたがが外れた政治を許し続ける怠惰な国民であっては、この国は精神的に滅亡していくと思うからです。

話しが逸れてきました。
一郎くんを「希望」のスタートラインに立たせたいと思うのは、私自身が「希望」のスタートラインを渇望しているからなのです。
希望を持ちたくてあがいているのは、私自身でもあるのです。

【釜】

チケット販売スタート

お待たせしました。第22回定期公演「どんぐりと山猫」のチケット販売を開始しております。
詳細は以下のとおりです。

†7月18日(日)石橋文化センター小ホールにて。
†13時と16時の2回公演。
†石橋文化センターと久留米シティプラザ情報サテライトで、チケット販売。
†劇列車HPからの購入お申し込みも出来ます。
†子ども500円、ファミリー大人800円、一般大人1200円です。

コロナウィルス感染防止のために、入場定員規制を行っておりますので、チケット売り切れが生じる可能性があります。
御観劇をお考えの皆様には、早目の御購入をお薦めいたします。

それでは、皆様の御来場を心からお待ちしております。
【釜】