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市民人形劇学校~実技編:子どもがよろこぶカンタン人形劇

「子どもがよろこぶカンタン人形劇」と題した市民人形劇学校~実技編。
9月26日日曜日から、毎週日曜日に3週連続で開催します。

プログラム内容は、手遣い人形をつくって「なかよし」を演じてみるというもの。
つくる人形は、発泡スチロールを材料にあっという間に作れる人形です。
演じてみる「なかよし」は、コツを押さえれば誰でも演じることができます。難しくありません。

市民人形劇学校~実技編『子どもがよろこぶカンタン人形劇』の詳細は、下記画像をクリックしてご確認ください。


子どもたちは、人形劇が大好きです。
机の影から突然飛び出した人形に釘付けになって見続けます。
保育の現場で、地域の子どもたちとのかかわりの中で、人形劇を活用してみませんか?
みなさまのご参加をお待ちしております。

お申し込みはこちらをクリック。


【尚】

テラコヤプラス様ありがとうございました

夕方にはヒグラシの声とともに、鈴虫や秋の虫たちの声が力強く交じり、とても賑やかです。
夏の静寂な一時です。

さて、皆様に紹介させていただきます。
「テラコヤプラス」という企業様から、舞台アート工房・劇列車を紹介していただきました。

「劇と文化を届ける『舞台アート工房・劇列車』を取材!困難を抱える子どもたちへの思いとは」というタイトルのウェブ上の記事です。
テラコヤプラスのライター様からみた私たちの劇列車の事業(活動)が、丁寧に紹介されています。
皆様、よかったら覗いてみて下さいね。
【劇列車インタビュー記事-テラコヤプラス】
https://terakoya.ameba.jp/a000001467/

他にも、路上で生きる子どもの生活者を支援する団体や、子どもの自然体験を支援する団体など、たくさん紹介してあります。
よければそちらの記事の方もどうぞ。
様々なところで、様々な人や団体が活躍してあるのですね。
私も興味深く拝見しました。

テラコヤプラスの皆様、私たち舞台アート工房・劇列車の活動を紹介して下さり、ありがとうございました。
ズームによる一時間余りのインタビューと、その前後でのやりとりに、丁寧に応答くださり、感謝しております。
厚く御礼申し上げます。

テラコヤプラス様のHPアドレスを、劇列車HPからアクセス出来るようにリンクしております。
テラコヤプラス様に御関心をお持ちの方々は、どうぞアクセスしてみて下さい。
【テラコヤプラスHP】
https://terakoya.ameba.jp/

さて、劇列車は今、子どもゆめ基金助成事業「市民人形劇学校~実践編」「市民人形劇学校~研究・実践交流編」の準備を進めております。

ですからなかなかに忙しいのですが、夏の巡回公演がコロナ禍で中断したために、少しはゆとりが出来ました。

これは財政的にはとても打撃なのですが、くよくよしてはいられません。

今年度の「困難を抱えた子どもへの人形劇観劇体験事業~パペットシアターPROJECT」のために、着々と理論学習も進めています。

そもそも「困難を抱えた子ども」の「困難」とは、何を指している概念なのか?
貧困とは何か?
その問題に向き合う「作品創造」にあたって大切なことは?

複雑に絡み合った問題群です。学びながら実践を構想していくことは、様々な分野の研究に沈静していく営みでもあります。

それらの先行諸研究を読みといていくことは、「フゥ…」とため息をつきたくなる程の気が遠くなりそうな作業です。
同時に「頭の中がスッキリと整理されていく」作業でもあります。
視界を遮っていた目の前の霧が、スーと晴れ渡るような。

誤解のないように述べておきますが、劇列車は「パペットシアターPROJECT」に特化した事業を展開しようとしているわけではありません。

「どんな子どもにも」という劇列車ミッションには、お金持ちで環境に生まれた子どもも、もちろん含まれています。
通常の巡回公演や手打ち公演も、大切に考えています。

さて、私たちは徒手空拳ながらも、人形劇の「民衆的性格」に助けられながらも、子どもたちが喜んで食い入るように見てくれる作品を生み出してきたことには自信があります。

(自信があることと、表現課題に謙虚であることを両立させてきました。自信があっても自信過剰にはなっていないつもりです)。

だから、自力で巡回公演を途切れることなく続けてこられたのです。
毎回手打ち公演では「満席で入れません」と心ならずもお断りする事態が生まれてきたのです。
今は全く手売りをしていません。けれども満席になるのです。

そうして、ようやく気づいたのです。「劇場」に足を運ばない子どもたちがいることに。
がく然としました。

劇場に来ないのは、個人の好みの問題ではないと直感したからです。
(好みの問題ならば放置しておけばよいのです。私たちも、そんなことにがく然とはしません)

なぜ来ないのか?そこに越えがたい障壁があるからだ。
そのことを直感したから、がく然としたのです。

そこには、ブルデューのいう「ハビトゥス(後天的に形成された人間の指向性)」の問題があることに気づいたのです。
そしてその「ハビトゥス」の土台には、拡大する「貧困」問題があることに気づいたのです。

とするならば…。
「アファーマーティブアクション」を組織していかなければならない。
そう考えたのが、「パペットシアターPROJECT」構想の発端でした。

そこに気づくと、後戻りは出来なくなりました。

パペットシアターの構想を実現する努力を払わなければ、「どんな子どもにも」という自分たちのミッションを、自分たちで信じられなくなるではありませんか。
平たくいえば、「欺瞞」になってしまうと考えたのです。
だって、現実に「どんな子どもにも」届いてないのですよ、私たちの人形劇が。
そんな不都合な事実に、目を瞑ることになります。

そこに目を瞑るならば、不可視化(見えなくされている)された人々の存在に鈍感になっていき、私たちは無自覚なうちに「いいことしてるとイイ気になっている裸の王様」に堕ちてしまう…。
そう考えたのです。

不可視化された人々を視野に入れない実践は、地に足がつかないものになっていきます。
それは、無意識のうちに社会的排除と結びついていくのではないか?

不可視化された人々を視野に入れない創造は、地に足がつかないものになっていきます。
それは、無意識のうちに恵まれた人々の「娯楽」に奉仕するものに成り下がっていくのではないか?
そう考えたのです。

いや、ブルデュー風に述べるならば、私たちに刻まれた「ハビトゥス」によって「そう考えるように導かれた」といえるのかもしれませんが…。

いささか倫理的観点に重きを置きすぎたかもしれません。
また小難しい文章になりました。
このような主張と小難しい文章が、今の日本社会で浮き上がることは、よく承知しています。
ですが、無視してはならない課題であり、今までの演劇運動や文化運動の盲点となってきた問題なのだと思うのです。

三回続いた「子どもの貧困」に対する考察でした。
もしかしたら不愉快に感じられる方々がいらっしゃるかもしれません。ブログをお読みの皆様のお気持ちを逆撫ですることにになりましたら、お詫び申し上げます。
私たちは、一団体の努力では無力でなくても微力すぎる大きな問題を、問題提起したいと思っているのです。

そして、最初に戻ります。
テラコヤプラス様は「象徴資本(権威名声名誉など)」とは縁遠い私たちを紹介下さり、「見えない問題」であるがゆえに関心を引きにくい「困難を抱えた子どもへの観劇体験支援」について、丁寧に聞き取って下さいました。
もちろん、私たちの事業の文脈がそのまま記事に再現されているわけではありません。
しかし、ライター様が私たちの事業を苦労して読みとり、温みある文章にしていただいたと理解しております。

記事にしていただいたテラコヤプラスの皆様には、心から感謝申し上げる次第です。

次回ブログは、「市民人形劇学校~実践編」の御案内を致します。

【釜】

パペットシアターPROJECTを考える②

前回ブログは、劇列車の「パペットシアターPROJECT」を、アファーマーティブアクションの観点から述べてみました。

しかし、読み返すと理論的整理が弱いようです。この弱点は、どうして生まれたか?

私自身がかつて「困難を抱えた子ども」の一人であり、大学進学によってささやかな「階層上昇」をした一人であり、従って「階層上昇」に対して心にうずき続ける「後ろめたさ」抱えているからでしょうか?

またそこから、「子どもの体験格差」に強い怒りを感じるという個人史履歴を背負っているからなのでしょうか?
自己に刻印された履歴(個人史)が、押さえつけていた感情を溢れさせからでしょうか?

それとも、過去の個人履歴が「どんな子どもにも劇を」というミッションを掲げさせて、「パペットシアターPROJECT」に取り組むモチベーションになっているからなのでしょうか?

どうしても平静に書けない感情的衝動に流されてしまいました。

しかし、それではダメなのです。
理論的整理が必要なのです。

なぜなら、この事業を実現するためには、助成団体或いは行政関係者を説得する「言葉と説得的論理」を獲得しなければならないからです。

「演劇(人形劇)は生きる力と勇気につながります」等のスローガン的言葉で、助成団体や行政が動かされることは、まずあり得ません(そう思います)。

そんなスローガン的言葉で何かを語った気分になるとすれば、創造団体側の手前勝手な言い分以上にはなりません。
それは、相手に通じる言葉ではないのです。

助成する側の相手は、限りある貴重な助成金を出来るだけ有効に使いたいと考えます。
ですから実施団体に、課題を正確に把握、的確な実践と具体的成果を求めてきます。

当然です。
責任ある仕事をしている助成団体や行政担当者ならば、そう考えるのがあたりまえなのです。
ですから、こちらも相手を説得できる「言葉と論理」を持たないといけないのです。

そこで、前回よりも理論的な整理を行ってみましょう。

■経済格差が「子どもの貧困(相対的貧困)」を生み出しています。
それは社会的・政治的に解決されなければならない問題です。
ここに異論のある方は少ないと考えます。

■「子どもの貧困」を解決するためには、経済的格差の縮小だけでは極めて難しいといえます。
では、それは何故なのでしょうか?

■それは。「子どもの貧困」は「子どもの学力格差」「生活格差」や「子どもの体験格差」、貧困状況にある家庭の「孤立状況」と複雑に絡みあっているからなのです。

■「子どもの体験格差」とは、様々な体験格差の総称です。
その中でも、フランスの社会学者プルデューが明らかにしたように「文化資本格差」が大きな問題と認識される必要があります。

ここで「文化資本」という聞きなれない概念を説明してみます。

資本とは、そもそも利潤を生み出す投資に使われる生産手段を指す概念です。

例えば、工場でモノを生産し、それで利潤が生まれれば、工場は資本であるといえます。
工場がなくても工場を建設出来る貨幣があればいいわけですから、利潤を生み出す投資に使用される貨幣も資本であるといえます。

社会学者ブルデューは、それを経済的資本といいます。

ここからがブルデューのユニークなところです。彼は「個人が身に付けた文化は資本として機能する」と考えました。
その概念に「文化資本」と名付けをしたわけです。

(この「文化資本」という概念は、現在ブルデューを離れて広く流通する言葉になっています)。

さて、経済的資本は利潤を生み出します。文化資本もそれに近い性格を持っています。

学歴・資格など「制度化された文化資本」、社会の上層に受け入れられる作法・言葉使い・センス等の「身体化された文化資本」を個人所有すると、それは社会的地位・高い収入・社会的尊敬などの、個人的な利得に結びつくというわけです。

それは経済学的意味での「利潤」そのものではありません。
しかし、上述した「制度化した文化資本」も「身体化した文化資本」も、「金を稼ぐ能力」と結びついているがゆえに、「利得」と名付けられます。

■いささか乱暴にまとめてみます。
経済的格差は子どもの「文化資本」獲得格差と結びつき、それが学力格差や社会的孤立の土台を形成していくのです。

そして、「文化資本」格差は、家庭や地域環境で形成されるハピトゥスを原動力として、親から子へと「自然に」再生産されていくのです。
そうやって、「文化資本」格差は「階層」固定化と結びついていくのです。

■これらの問題は目に見えません。表現されることも稀です。
そのことを、ブルデューは「社会は表だって表現されることのない苦しみであふれている」と述べています。

■結論です。
「子どもの貧困」は、親の経済的格差の是正だけでは解決しません。
(もっとも軽視してはいけないし、重点課題であります)。

「子どもの体験格差」、特に「子どもの文化資本」格差を是正していかなければ、世代を超えた貧困の連鎖(階層固定)の解決は困難であります。

「子どもの貧困」対策としての社会的実践「子ども食堂」は、食糧支援を主たる任務としています。
しかし、行政がそこにのみ目を奪われ、そこに満足していてはならないと
考えます。

社会的孤立を防ぐ「子どもの居場所づくり」や、当面の応急処置としての「無料子ども塾」のみならず、出来る限りの「文化資本」格差是正含めた多面的対策が長期的に必要であるといえます。

※以下は補足です。

ブルデューのいう「文化資本」という概念によって、見えないことが明らかになることは事実です。見えないことが、くっきりと見えた時の爽快感さえ味わいます。

しかし、一方で複雑な思いも過ります。
文化や芸術が「文化資本」として機能しているのであれば、そうではない文化芸術はありえるのだろうか?と。

1950年代日本の「サークル運動」や、その末期に彗星の如く出現した谷川雁の「サークル村」実践は、文化芸術を個人が文化資本として「所有する」ことから解き放ち、「そうではないもう一つの文化を集団的に共有する」を指向した実践ではなかったか?と。

いささかユートピア的な発想と実践に思えます。
しかし、これは大切な視点(切り口)だと思います。
1950年代のサークル運動は、歴史の屑籠に捨てられました。
いま、屑籠から取り出して、現代の課題から読みとくことが必要です。
芸術が「芸術界」という特権的な「界」から解き放たれ、民衆のものとなるためには。

しかし、それはいまの「子どもの貧困」という現実を切り開く社会的実践の喫緊の課題とはいえないと考えます。

文化芸術とサークル運動に対する、そのような問題意識を忘れてはなりません。ですが、いまは、そっと寝かせて温めておきましょう。

さて、「パペットシアターPROJECT」は、劇列車の実践固有名詞ですが、同じ質と指向性をもった取り組みは、各地で同時多発的になされる必要があると考えます。
1団体で賄える問題ではないのです。

【釜】

パペットシアターPROJECTを考える

コロナ感染爆発が起きています。
この1年半の感染対応を見ていると、3・11福島第1原発事故後の対応、水俣病への対応、ひいては明治の足尾鉱毒事件への対応とそっくりです。

先ず楽観視する(あるいはタカをくくる)。次に隠蔽する、対策をとっているポーズをとる。そして見棄てる(棄民する)。

ここに、明治以来の日本に課せられてきた宿題を解いてこなかった(サボってきた)日本人の姿が透けて見えます。

宿題を解くことをサボってきたために、日本人はこれらの深刻な諸問題を解決する能力を欠いてきた。
私には、そう見えています。
このことは、いずれ回を改めて述べてみます。

さて、ここではそのことに切り込むのではなく、現在準備が進む2022年度「パペットシアターPROJECT~困難を抱えた子どもへの人形劇観劇体験支援」事業について述べてみたいと思います。

この事業は、主として子どもの貧困状況が生み出す「子どもの体験格差」を埋めていくアファーマーティブアクション(積極的格差是正処置)です。

「子どもの体験格差」。
これは分かりずらい(他者に伝わりにくい)問題です。

なぜなら、一つには数値化しにくい問題であるからです。
また、被格差当事者が例えば「成人式で振り袖が着られなかった」と言っても、周囲は「我慢しなさい」と言います。
当事者が「何気なく」を装いながら、じつは意図的に発しているそんな言葉(心の痛み)は、「私は社会の中で孤立している」と感知していることから生まれていることが多いのです。

しかし、他者からみれば「たかがそれくらい」と優先順位が低くなります。
少なくとも、当事者から発せられる「何気なく装われた言葉」から、当該当事者の「社会的孤立感」を読みとく人々は稀です。

一方では、周囲の無理解の中で、被格差当事者にとっては「体験喪失」の積み重ねが「取り返しのつかない問題」になっている。
なのに、お互いに分かり合えない。
そのような目に見えない分断が「子どもの体験格差」から生まれます。

ですから、一見「分かりずらい問題」にみえるのはあたりまえでしょう。

国立青少年教育振興機構の調査によると「子どもの体験」は、「コミュニケーション力」や「自己肯定感」に大きく影響を与えています。
これらは、他者とうまく付き合う上で不可欠の能力であり、進学・就職・結婚など人生に関わってくる問題なのです。

「子どもの貧困」が、上記のような「子どもの体験格差」につながる。
それがその後の人生の質を左右しかねない。
これが「子どもの体験格差」問題です。

繰り返しますが、分かりずらい問題なのです。
しかし、被格差当事者相互間では、他の当事者が内包する痛みや悲しみが、まるで我が事のように、手に取るように分かる問題です。
身体に刻み込まれた自らの心の痛みとともに、まざまざと分かってしまうのです。

さて、本来でしたら、そもそもの原因である「子どもの貧困」や「子どもの体験格差」をなくす措置が先ずは必要なことでしょう。

この視点を欠けば、最近注目を浴びてきた「子ども食堂」等にしても、対処療法以上にはなりえないのではないでしょうか。

もちろん、子ども食堂運営に関わる大人たちの努力を否定するつもりはありません。

肝心なポイントを忘れてはならないと言っているのです。
「子どもの貧困」は政策で改善出来るのです。

その視点を欠けば、大人たちの努力は、単なる「美談」として回収されてしまいます。
恐ろしいのは、努力している大人たちが、周囲からの「美談」としての評価に自己満足し溺れてしまうことです。

そうすると、大人たちの貴重な尊い努力が、いつしか被格差当事者に対する「共に社会を創る仲間としての連帯」ではなく、上から目線の「憐れみ」と転化しかねないのです。

さて、横道に入りかけました。本道に戻って続けましょう。

「パペットシアターPROJECT」はアファーマーティブアクションと言いましたが、そもそも、アファーマーティブアクションとは、何なのでしょうか?

アファーマーティブアクション(積極的格差是正措置)とは、「社会的・構造的な差別によって不利益を被っている者に対して、一定の範囲で特別な機会を提供することにより、実質的な機会均等を実現することを目的」とする措置のことです。

つまり、子どもの貧困(場合によっては、閉鎖的な日本社会から見えなくされている問題~外国籍や外国にルーツを持つ家庭の孤立など)から起きてくる「子どもの体験格差」のうち、芸術文化体験分野での格差是正(アファーマーティブアクション)。
それが「パペットシアターPROJECT」なのです。

それでは、「パペットシアターPROJECT」とは一体何なのでしょうか?。

困難を抱える人々(ここでは「体験被格差当事者の子ども」)ほど、芸術を必要としています。
しかし実際は、困難を抱える人々ほど劇場に来ないのです。
いや、芸術が必要であるとの自己認識を持たないのです。
これは当事者を責めているわけではありません。

自分に関係のない「どこかお高く止まった、上から目線で自分を見下してくるもの」を、誰が観たいと思うでしょうか?
自分を小馬鹿にしてくると感じる場、すなわち劇場に来なくてあたりまえです。
全くあたりまえです。

①そのような精神的参入障壁を可能な限り下げるためには、被格差当事者の生活圏へ劇(人形劇)を持ち込む必要があります。

②経済的参入障壁をゼロにするために、無料公演とする必要があります。

(値打ちのあるものだから、高くてあたりまえという考え方は、ここでは「強者の論理」と化してしまいます)。

③事前の学習と事後の学習を、「学ぶことが楽しい・思ったことを書いてみるのが楽しい」という学びの楽しさに着目した「学びの場」として組織する必要があります。

(楽しみの消費の場であることを、注意深く避けることが必要です)

こんな事業が、劇列車事業「アファーマーティブアクションとしてのパペットシアターPROJECT」です。

さて、付け加えましょう。
このアファーマーティブアクションを実現するためには、事業主体(私たち劇列車)と、受け入れ主体、それに助成主体が必要となります。

先に書きましたが、経済的参入障壁をゼロにするためには、入場無料でなければなりません。

(100円も取れないと考えています。経済的に厳しい中で苦闘してある方々は、「その100円があれば…」と考えます。そして「もったいない」と価値判断を下して、子どもが「観たい」と言ってもなだめすかすのです)。

しかし、一方で会場費用、広報費用、上演費用はかかります。ですから、この事業の持続のためには、どうしても助成団体が必要となります。

それこそ、この事業を無料で行う「美談」としてしまえば、事業持続がそもそも出来なくなります。
そうすると、「子どもの体験格差是正」が出来なくなる。
それではいけない。

だからどうしても、以下のことが大切になります。事業持続の死活問題と言えるほど、大切になります。

「子どもの芸術体験の場」を、豊かな体験的学びの時間として持続させていくために、事業主体・受け入れ主体・助成主体が三位一体となった協同が必要である。

とするならば、この事業の実現は、「子どもの貧困」解決すら社会的コンセンサスが得にくい現代日本社会の中では、新自由主義が跋扈する現代日本社会の中では、夢物語でしょうか?

体験格差も学力格差も「仕方ないよ、自己責任だよ」と自己責任論が跋扈する日本社会。
そんな中で「子どもの体験格差是正は、実現が難しいから仕方ないよ」と、放置しておいてよいのでしょうか?

私たちは、実際に昨年度、現実にこの実現にこぎ着けたのです。
今年だって出来ないはずはないのです。
今、準備をはじめています。

最後に…。
人形劇は、誰に対しても魅力的な表現形態です。そのような人形劇の性格を、私たちは人形劇の「民衆的性格」と呼んでいます。
その人形劇の民衆的性格は「子どもの体験格差是正」にとって、有効な武器となるはずです。
人形劇に慣れ親しんでなくても、面白いと思えるのですから。
これは凄い武器です。

そうして、私たちは「パペットシアターPROJECT」という アファーマーティブアクションに、今年め踏み出します。

ここには、新しい可能性が開けています。
その可能性とは、私の喜びがあなたの喜びとつながる可能性。
私の喜びがあなたの喜びを奪わない可能性。
分断を越えて手をとりあう可能性。
そんな可能性に満ちているのです。

【釜】

夏の巡回公演中断

空が高く上がりだしました。夏の空が秋の空に変わりはじめています。赤トンボも舞いはじめています。

さて、「福岡県コロナ特別警報」発令に伴い、久留米市内公共施設も閉鎖されることになりました。
それに伴って、お盆過ぎの巡回公演では会場使用が出来なくなり、オファー先からのキャンセル連絡が来ました。
残念ですが、ここで夏の巡回公演は一端終了となります。

秋の巡回公演では、10月~11月に3ヶ所が予定されています。なんとか開催出来ることを、祈っています。

劇列車の通常業務と通常稽古は、独自にアトリエを開設しているために、普段通りに動きます。
コロナ感染状況を見ながらオファー時期を探ってあった皆様、オファー日程が決まりましたら、御連絡いただければ、対応させていただきます。

劇列車巡回公演では、コロナ感染防止対策をとっております。

①演者は不織布マスク着用。
②舞台と観客席を2メートルから2.5メートル空ける。また観客席が密にならないように十分なスペースをとる。
③会場換気が出来るように窓を開ける。
④さらに、演者は全員ワクチン接種済みであり、当日の会場乗り込み時に検温もしています。

上記のように出来る限りの対策はとっておりますので、オファーを御検討いただければ幸いです。

さて、このブログで書いてきましたように、長引くコロナ禍では、「隠されていた様々の問題」が可視化されました。

その一つは、社会の中で「見えなくされた人々」「置いていかれた人々」ほど、経済的にも精神的にも追い詰められていったことであります。

そして、追い詰められた家庭環境にある子どもほど、そうではない子どもとの「体験格差」が、絶望的なほど開いてきているであろう、ということであります。

子どもの「体験格差」は、自己肯定感情の格差につながります。
体験の量と質が、その後の人生を左右することにつながります。
しかし、体験格差は簡単には埋まらないのです。

朝日新聞(2021.7.21)によれば、「育った環境の格差を埋め、『普通』を手に入れるためには途方もない過程が待ってる」のです。

「体験格差」は一見「分かりづらいストーリー」であるために、なかなか周囲の理解をえることが難しい問題です。
ですが、繰り返される「緊急事態宣言」下では、このように目に見えない重大な欠損と問題が生まれてきているのではないでしょうか?

巡回公演は、被格差状況に置かれた子どもへの直接支援策ではありません。
しかし、被格差状況に置かれた子どもに届く可能性のある公演形態です。
なぜなら、学校にしても学童保育所にしても、被格差状況にある子どもが在籍している可能性があるからです。

確実な統計を手にしている訳ではないのですが、被格差状況に置かれた子どもがいないと考える方が、むしろ不自然です。
日本の子どもの6分の1が「相対的貧困」状況にあるのですから。

子どもの体験機会は、誰に対しても平等に公正に開かれていなくてはなりません。
そのために、巡回公演は一定の役割を果たしているのではないでしょうか?

(だからこそ、「行き当たりばったり」で「無責任」に見える政府のコロナ感染防止対策で、子どもの体験機会が奪われることに怒りが沸くのです)

始まって、すぐに中断に追い込まれた夏の巡回公演でした。
しかし一方では、会場探しに奔走された学童保育指導員の先生の姿をみました。
密を避けるために、体育館を選択された指導員の先生もいらっしゃいました。
それぞれの御苦労が偲ばれます。
その御苦労に応えるために、私たちも熱気のこもった体育館でバテずに上質の上演できるよう、様々な工夫を凝らしたのでした。

コロナ感染を避けるための公演会場選択には、時間も精神力も、とても使います。エネルギーを使わないといけなくなっている状況です。

私たち自身が、そんなエネルギーを使って公演やワークショップをしてきましたから、その大変さが、手に取るようにわかるつもりです。

御苦労をなされた指導員の先生方が、私たちと全く同じ考えに立っているわけではないと思います。
しかし、子どもの体験機会を保障したいという気持ちを胸に、東奔西走されたのだと思います。

数少ない夏の巡回公演でしたが、そんな先生方と人形劇「ちょうふく山のやまんば」を喜んでくれた子どもたちに出会えました。
そんな出来事の数々が、私たちの喜びにつながります。
本当にありがとうございました。

【釜】

ちょうふく山のやまんば、本日巡回公演

猛暑日が続きます。日中の暑さにバテながらも、夕方日没前の茜色の空に感動を覚えます。
日光に照らされて光る山々の鮮やかな緑色にも、夏らしい力強い生命力を感じますね(^^)

本日は、久留米市内の学童保育所にて公演。
夏のような力いっぱいのエネルギーを発信する素敵な子どもたちと出会えた公演でした。
一生懸命みてくれて、劇に参加してくれて、ありがとうございました(^^)

コロナ感染対策を行ったうえでの上演です。
密を避けるため、換気や会場の広さなどの条件をクリアする必要があります。
指導員の先生方は、観劇会を安心して開催するための会場探しで奔走されたのではないでしょうか。厚く御礼申し上げます。
子どもたちの観劇体験を確保したい。私たちも同じ思いで、マスクの着用や消毒の徹底をしたうえで上演に臨んでいます。

観劇体験は、画面越しではなかなか難しい。
もちろん画面越しで得られる体験もあると思いますが、観劇体験はその場に集い、舞台と客席が双方向に響きあって初めて得られるものが大きい。上演するたびにいつもそう感じます。

1年半ほど続いているコロナ禍の生活。この環境に慣れてきたとはいえ、日常の喪失が子どもたちに与えた影響とそれを回復させる手段についてはまだまだ模索の途中です。
また、コロナ禍の中で今まで以上に厳しい環境に追い込まれてしまっている子どもたちも多くいます。

わたしたちにできることを。
福岡県に4回目の緊急事態宣言が発出される可能性を目前にして、深く考えます。

【尚】

巡回公演スタート

8月になりました。暑さは真っ盛りですが、だんだん日没が早くなってきています。
つくつく法師も鳴き始め、夜になると虫の音が…。秋が忍び足で近づいています。

さて、劇列車は演目「どんぐりと山猫」から「ちょうふく山のやまんば」への作品転換を終えて、本日から夏の巡回公演をスタートさせました。

今日は、久留米市内の学童保育所での「ちょうふく山のやまんば」公演。
窓を開けての換気、客席の間隔を空ける、マスクをしての上演と事前検温等、感染対策をとりながの上演です。

巡回公演は3月以来です。久しぶりに、子どもたちの前での公演。
事後の会場消毒まで含めて、なかなかに負担は大きいのですが、なによりも子どもたちの前で人形劇を演じる喜びがあり、「やるぞ!」と思えます。

終演後は、人形説明と人形を持ってもらう体験コーナーです(もちろんアルコールで手指消毒をして持ってもらいます)。
時間の関係で、代表者の子どものみに人形を持ってもらいましたが、客席からはたくさんの手が上がっていました。
人形を持つことができなかった子どもたち、本当にごめんなさい。
興味津々で、人形説明の話しを聞いてくれて、本当にありがとう。

明日は、別の会場で「ちょうふく山のやまんば」仕込みです。
夏の暑さにあてられないように、細心の注意を払って舞台を仕込みます。

さて巡回公演のみならず、秋の「市民人形劇学校」の制作も本格始動しました。
また、とある企業様からズームによる取材を受けるなど、多忙を極めています(この取材の件は、取材記事が公表された時点で、ブログをお読みの皆様にも御紹介します)。

夏の巡回公演が一段落したら、ひとみ座編「人形劇教室」(新興出版1964年発行)の読み合わせ、ブレヒトの戯曲「胆っ玉おっ母とその子どもたち」(未来1999年発行)読み合わせ等、学習の時間をとりたいと思っています。

稽古こそ最も実践的な学習の場でしょうが、一方で座学としての学習も大切なのです。
座学の学びと稽古での実践的な学びは、車の両輪です。

【釜】