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人形劇であそぼ!を終えて

2022.03.14 (月)

ぽかぽか陽気が続きます。あんずの花も開きました。

さて、昨日(13日)は、小郡市生涯学習センターを会場として「人形劇であそぼ!」(子どもゆめ基金助成企画)を開催しました。

人形演劇「どんぐりと山猫というはなし」を観て、人形とふれあい、舞台裏を覗いて見る。そして簡単な劇人形を工作して作ってみるまでの2時間半。
参加された皆様、満足いただけましたでしょうか?

準新作「どんぐりと山猫というはなし」は、これまで一週間おきに、三潴生涯学習センター、久留米シティプラザ、小郡市生涯学習センターと上演を続けてきました。
作品の検証材料も少しずつ蓄積されてきています。

(作品は様々な観客の皆さんの目に触れて、第三者評価もいただくことで、その意味と可能性が見えてくるのです)。

そこで見えてきたことは、「どんぐりと山猫というはなし」は、様々な形態での上演可能性を秘めているということです。

様々な形態の上演とは、ひとつに、事前の鑑賞ガイド配布によって、より深い鑑賞体験が出来るようになること。
二つ目に、終演後に観客の皆さんと「おしゃべり会(アフタートーク)」の場を持ってみること。
三つ目に、インターネット空間に「観て感じたこと考えたこと」を出し合う広場空間を生み出すこと。
等々。

まとめるならば、人々がそれぞれで「哲学する(深く考えてみる)」触媒としての可能性です。そんな可能性を「どんぐりと山猫というはなし」は、秘めているように思えるのです。

だからこそ、人々(子どもも大人も)が哲学出来る広場を、多様に柔軟に造り出さないといけない。そう考えています。

「子どもに哲学だって?難しいよ!」と言われそうですね。
いえいえ。
子どもだって「哲学する」ことは出来るのですよ。
むしろ、子どもの方が哲学に鋭く接近するのです。
青年になると、出来るどころか、むしろ「哲学する」ことは必要なことだと思っています。
大人の方が、逆に哲学できなくなっているように思えてなりません。

哲学とは、現存の社会思潮に流されずに自立して生きるための武器です。
自立して生きようともがく人々には、とてもよくわかる。
一方で、社会に流されて生きる人々には、さっぱりわからない。
それが哲学のもつ特徴です。

久留米シティプラザでの上演だったでしょうか。まだ未就学児の鑑賞者が「一郎くんはどこに行ったの?」と、保護者の方に質問したそうです。
この子は、見事にこの人形演劇の本質を衝いています。

では一郎くんはどこに旅立ったのでしょうか?
いろんな答えがあると思います。
「精神的自立にむけて」「心の解放区にむけて」或いは「家出して放浪した」だってありでしょう。
答えは1つでありませんし、それぞれに答えがあっていい。

大切なことは、こんなつぶやきを語り合える「対話」の場があること。
それを作っていきたいと思うのです。

(閑話休題。「対話」とは、人間と人間が対等関係であることから成り立ち、お互いの本質をかけて言語でコミュニケーションし、相互に影響し合い、新しい何かを発見していく行為です。
私的なおしゃべりとも、勝敗を決めるディベートとも違う。
多くの日本人は、私的なおしゃべりは出来ても対話は下手です。
ですから、私たちの国の民主主義は脆弱なのです。
「対話」について、それは私的おしゃべりと違うことを、正確に定義しておきたいと思います)。

話がそれてきました。
以上のことは、4月以降の上演活動の中で具体化していきたいと思います。

最後に、ほんとうに不思議なのですが…。
乳児期の子どもを除いて、「どんぐりと山猫というはなし」は子どもたちがよく観てくれます。
もちろん、飽きさせない仕掛けは随所に張り巡らされています。

一方で、この事実は私たち大人が持っている定型的な子ども観を揺さぶってくるように思えてならないのです。

上演をめぐるこの事実を説明できる仮説として、以下のように考えてみました。

「子どもは大人になる過程を歩む未完成な存在」ではなく、「子どもはその時その時を精一杯生きているいまを生きる完結した存在」であるという子ども観。
それが、子どもの姿をとらえる物差しとして、じつはきわめて有効なのではないのかと。

子どもは、喜びも悲しみも苦しみも背負って、精一杯いまを生きている存在です。
だからこの人形演劇の主人公一郎くんがわかるのではないでしょうか。

(昨日の上演では、無言の人形演技が長く続くところで飽きた未就学児の鑑賞者が、保護者の方の適切な声かけ「見てごらん、一郎くんが悲しいみたいよ」という言葉で再集中をして観ていました。
ラストシーンです。大人の方々に「難しい」と感じる方々がもっとも出るところです。ほんとうに驚きました!)。

さて、まだまだこの作品に対する検証は続きます。

20日は、久留米市内K小学校ワールド学級(外国籍または外国にルーツをもつ子どもへの支援学級)の子どもと保護者の皆様を対象とした「パペットシアターPROJECT」です。
「どんぐりと山猫というはなし」が、外国にルーツをもつ方々と一緒になって、どんな化学反応を起こしえるのか?
または起こしえないのか?
私たちも、ほんとうに楽しみにしています。

パペットシアターの場で生まれること、生まれる可能性、それを見極めること。
素敵な当日パンフレットも出来ました。
準備万端で臨みます。
出来れば「感想のおしゃべり時間」もとれたらいいなぁ。

どこに行こうと私たちは、こう考えています。抑圧された人々が自尊感情を取り戻し、言葉を獲得し、自立して思考する。つまり人間としての誇りを奪い返す。
私たちの表現は。そのための触媒となる表現でありたいと。

私たち自身が、表現によって、自己否定感情に塗り込められていた心を解き放ち、自尊感情を育て、言葉を獲得してきたのですから。

(だから表現の場におけるヒエラルヒーと権威主義に嫌悪感を覚えるのです。
ヒエラルヒーと権威主義は、人間の解放につながるメンタリティとは無縁なものだからです)。

最近はこういう考えに基づく演劇行為を「応用演劇」というそうですね。
でも私たちは、応用演劇と呼ばれる以前の呼び名をあえて使いたいと思います。
そうしないと、表現の実践に対するピントが定まらないと思うからです。

では応用演劇と呼ばれる以前の呼び名とは何か?それは「民衆演劇」という呼び名です。

【釜】