梅雨の晴れ間の紫陽花があでやかですね。
さて、昨日は久留米シティプラザ主催のトークイベント「劇場で考える~ジェンダー・多様性」に参加してみました。
このような他団体(劇場ふくむ)の主催イベントに参加した時、ブログに感想をあげることは滅多にしないのですが、このトークイベントには感想を書いておきたいと思い、あえて取り上げてみます。
扱っている社会的テーマ「ジェンダー」も、鋭く公共性の磁場にあるものです。
取り上げる意味はある。そう思います。
さて、このトークイベントは「新しい演劇鑑賞教室」の一環として開催されたプレイベントであるそうです。
演劇鑑賞は「学びの行為である」という主催者の認識には、両手をあげて賛成するものです。
プレイベントから作品鑑賞と事後対話までを一連の流れと考えて、演劇鑑賞教室の一つの実践事例として構築しようとする試みは、意欲的な試みであり、大いに賛同するものです。
このような演劇鑑賞教室が今後広がることを期待します。
昨日のゲストの話でも指摘してあったように、舞台上で自己とはちがった論理で行動する登場人物たち(つまりは、自己とちがった他者たち)から、様々な気づきと発見を得ていくことは、とても大切なことです。
だから演劇鑑賞行為は、学びの場になるのですし、劇場は教育機関であり得るのです。
つまり、劇場とは「自立した市民」としての自己形成の場。
全く異論はありません。
一方で、このトークイベントには、あるモヤモヤ感を残されたことも事実です。
それは私個人が感じたことですから、参加された皆さんと共有できるものではありませんが…。
感じたモヤモヤ感の正体はなんなのか?
少し考えてみたいと思います。
ジェンダー問題は、フェミニズム思想が暴き出した「見えない問題」であります。
見えないがゆえに、言語化しにくい。言語化しにくいゆえに、自覚されにくい。
そんな問題群がジェンダー問題でありましょう。
けれども、この問題群はは確実に「生きがたさ」や「生きる困難」と結びついています。
この問題群の中で苦しんでいる人々が多くいます。
だからこそ、切実な問題群であるのです。
まだフェミニズムという言葉すらなかった時代。
ウーマンリブの担い手たちもそうであったでしょうし、更に遡るならば、筑豊でサークル村運動を担った森崎和江も、そうであったでしょう。
フェミニズムという言葉は使っていなくとも、彼女たちは、自己の生きがたさを生む社会的な問題と格闘してきた存在であります。
ウーマンリブの担い手たちも、森崎和江も、自己の生きがたさを抱え、その原因を必死に考察し、言語化し、運動を展開していったのでした。
いわば、彼女たちに対してある見方をすれば、彼女たちはフェミニズムの先駆者たちであったと言っていい。
さて、フェミニズムの原点は、人間解放にあります。
ですからフェミニズムは、生きがたさや生きる困難からの解放思想であるのです。
そこには、社会の片隅に追いやられ、自己を語る言葉を持ち得ず、見えなくされている人々(不可視の人々)への共感と連帯があるはずです。
フェミニズムは、男性と女性が対等になることだけではない。
(もちろんこれを軽視しているわけではありませんし、軽視できるものでもありません)。
どんな人間であっても、見えない壁に阻まれて潜在的可能性を奪われてはならない。
そんな原点をもった思想がフェミニズムであり、言葉を持たず見えなくされた人々に立脚した運動が、フェミニズム運動なのです。
とするならば、昨日のトークイベントは、このような抑圧された人々への連帯の眼差しを持って、具体的な対応がなされていたのでしょうか?
そこに疑問を感じたのでした。
これはないものねだりでしょうか?
そんなことがモヤモヤ感の正体だったと思います。
おカネも社会的権威も権力も持たない人々に対して、抑圧はもっとも苛烈に牙歯を剥きだします。
ですからフェミニズム思想をもっとも必要とする人々に、自己を解放に導く強力な武器を提供しなくてはなりません。
劇場の公共的使命を考えるならば、ここは抜かせない構えであると思います。
これこそもっとも大切なことだと思われるのです。
劇場に来ない人々こそ、近い未来の顧客です。
来ない人々は「関心ない人々」ではないのです。
特に、鋭く公共性の磁場を帯びた問題を取り上げる際は、その構えが必要だと思うのです。
これは皮肉な言い方になって申し訳ないのですが、相対的にゆとりのある(と思われる)「意識高い系」の人々にもフェミニズム思想は必要でしょうが、もっと切実にそれを必要とする人々がまだいる。
そんな人々は、往々にして「自分が必要としている」とは自覚していません。
フェミニズムの「フ」すら知らないこともよくあります。
ですから、彼女たち(彼ら)を劇場に足を運んでもらうのは、極めて困難なことであるでしょう。
しかし劇場という場は、そんな困難な事業を実践していく社会的使命を背負った場なのです。
私たちは、様々な困難を抱えた子どもへの人形劇観劇支援事業を、事業の中核と位置づけて歩んできています。
だからこそ、今回のトークイベントは、ダルマを作って目玉を描いていない企画に思えてしまいます。
目玉とは、届けるべき当事者という存在の自覚です。
私たちのような零細NPOであっても、ささやかな有効性ある実践を積み上げることは出来ますし、事実積み上げてきました。
とするならば、久留米シティプラザのような地域の中核的公共劇場ができないはずはありません。
社会的信頼度においても、人的ネットワークにしても、使えるおカネでも、私たちとは格段にちがっているはずです。
弱者への眼差しから事業を構築し、その眼差しから事業を振り返って欲しいと願うものです。
ユースプログラムだから趣旨がちがう、ではありません。
弱者への眼差しと、劇場への参入障壁(ハビトゥス)への配慮は、どんな事業にあっても必要です。
最初に申しました通り「新しい演劇鑑賞教室」の発想と思考には、全面的に賛成するものです。ここで書いた感想は、いちゃもんをつけたくて書いたのではありません。
せっかくの意欲的取り組みです。それがある部分において惜しいことになっている。
そこを書いておきたいと思ったのでした。
この新しい演劇鑑賞教室が、充実した意欲的展開になることを祈っています。
【釜】
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