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稽古の日々

2021.12.18 (土)

初雪でした!今年も残すところ、あと10日余り。

さて、いま、劇列車は約二ヶ月半の創造中心の期間に入っています(もちろん1月の市民人形劇学校~実技編はありますけども)。

この期間は、7月に初演した人形劇「どんぐりと山猫」のブラッシュアップ期間となります。
タイトルも人形演劇「どんぐりと山猫というはなし」に変わります。
初演を土台としつつも、内容を大幅に改定しました。
それなりに時間のかかるブラッシュアップ稽古となりそうです。

脚本ブラッシュアップにかけた時間は、その構想から数えると三ヶ月余り。
もう、1本の短編新作脚本が出来そうな期間ですね。

さて、宮沢賢治の作品には、突如暗いブラックホールのような穴が姿を現します。

例えば「銀河鉄道の夜」では「石炭袋」のところ。
カンバネルラが吸い込まれていく穴。ジョバンニが戦慄する空の穴のところ。

「猫の事務所」では、獅子の登場のところ。獅子が事務所を破壊しつくすところ。

「どんぐりと山猫」では、最後にポツンと取り残される一郎の絶対的な孤独のところ。

作品によって姿を変えながら、繰り返し現れる暗く底知れない穴。
それが賢治作品に深みを与えるとともに、濃い陰影を刻んでいます。この陰影は、哲学的陰影と言ってもよいものです。
賢治作品は、彼の哲学的表現なのです。

こここそ、賢治作品が安易な理解を拒絶するように見受けられるところです。
また読者は謎を投げかけられたと感じます。
解釈の多義性が生まれる核心でもあります。

私たちは、何度も賢治作品に挑戦しながら、この暗い穴を表現することにおいて、何度も挫折してきました。

これは賢治作品の肝であると同時に、劇化を試みる私たちが跳ね返されてしまう苦しみの部分なのです。

だって、原作通りにそれを表現しようとしても、まずはうまくいかないのですよ。
特に「どんぐりと山猫」は、ほんとにそうなのです。
一郎の絶対的孤独を、いったいどうやったら演劇(人形劇)で表現出来るのでしょう?
この孤独はどうして生まれる?その意味を、どうよみとく?

ここが脚本ブラッシュアップで、もっとも苦労したところです。
書き直して意見を聞き、また書き直して意見を聞き。そんな連続でした。

そして、たどり着いた結論は、「どんぐりと山猫」をそのまま脚色しない!という結論です。

いろんな御意見はあるでしょうが、一郎を現代の少年に置き換えてみたのです。

すると不思議なことに、一郎が生き生きとしゃべり出したのです。
この物語が、現代を生きる多くの子どもと大人の、自分の物語となっていくと思えてなりません。

夏の旧作では届かなかった方々に、作品が届き始める可能性がみえてきたのです。

賢治作品は、下手をすると、生活に押し潰される心配の比較的少ない「中間階層」の人々に受容されがちです。
美しい可愛らしい物語として。
それが悪い訳ではありませんが、それだけでは困るのです。

なぜなら、それは賢治の本意ではないと思うからです。
その証明は、ここではしません。しかし、確かにそうなのです。

脚本で深い奥行きを出すことが、何とかできたと思います。
賢治作品は、皆さん御承知でしょうが浅くない。
どころか、その底知れない深さに目がくらみ、「どうしよう」と絶望したくなるのです。

そして実際に書いてみると、原作の深さに到底手が届かず、「こんな浅いことしか書けないのか」と自己嫌悪に陥るのです。

自己嫌悪に陥らずに、脚本をブラッシュアップできて、ホッと一安心。ちょっと肩の荷が降りました。
それがどこまでの出来なのか?
お客様の反応は、謙虚に受けとめなくてはなりません。

ここからの劇化には、様々な次元の要素が絡み合う必要があるでしょう。

脚本ブラッシュに、チームが一切の妥協をしなかったように、作者として人形遣いとして、稽古も妥協を排して臨んでいきたいと思います。

力を伸ばすことは、そこからしか生まれません。妥協を排した表現に取り組むこと。
それには、妥協しない精神を、鋼のように鍛えていかねばならないのでしょう。

(妥協しない精神とは、安直に流れずに表現を突き詰めるエネルギーのことです。
これはじつは、なかなかに大変なことなのです。
けれども突き詰めないと見えてこないものがあります。
そこが表現にとっての肝となるところです。

鋼のように鍛えるとは、「もう限界だ」と思っても、思い直して「もう一歩先へ!」と前に進めるように鍛えるということです。
これは鍛える毎に、もう一歩先への射程が長くなります)。

その上にたってこそ、表現の試行錯誤が楽しめるのです。

表現の楽しみは、表現の苦しみの土台にたっています。
こう書けば、鶏が先か卵が先か、という話しになります。
一方では、そこからしか力は伸びないのです。
間違いなく、そうなのです。

なぜなら、脚本を書く苦しみの上にしか、書く楽しみはない。その事を、いやと言うほど、味わってきたから。そう思うのです。

いかに妥協なく表現し、しかもそれを楽しめるか。そのことが大切なのです。
そこに何が生まれるのか?
きっと、表現者としての精神の充実が生まれるのでしょうね。

【釜】






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