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民話を解体しつくす新作

2022.07.23 (土)

夏の暮れにヒグラシの声しきり。
夏の昼下がりはとても静謐。シンとしています。

さて今日は、いまだに四苦八苦している新作脚本について書いてみます。

まずは回り道から。

現在上演中の人形演劇「どんぐりと山猫というはなし」は、「一番という価値を問う」主題を内包しています。
そして観て寄せられる様々のコメントの中に次のようなモノがあります。

「それぞれに一番である」(それぞれにオンリーワンであるという意味)というコメント。

もちろん悪くないコメントです。全く悪くない。いいコメントです。

だが…、しかし…。

ナンだか痒いところを靴の底からかいているような、そんなもどかしさが残ってきたのも事実です(あくまで私の気持ちとしてですが)。

そのもどかしさの正体とは…?
私は言葉にしかねていました。
言葉にしかねているということは、この感情の正体を掴んでいないということです。
だから、モヤモヤして、掴みどころのないもどかしさが残り続けていたのです。

ところが、或る時に、或る人とおしゃべりをしていて、フッと言葉が出てきました。
スラスラと言葉が出てきたのに、我ながらビックリしたのです。

それは「それぞれに一番でよい」とは、「生活に恵まれた方々(或いは劇場に足を運ぶくらい生活にゆとりのある方々)から出ている言葉ではないだろうか?」ということでした。

もちろん私たちの人形演劇は、チケット料金を可能な限り低く設定しています。
ですから多くの方々にとっては、子どもが「行きたい」と言えば観劇しやすいタイプの公演です。

しかしそうであっても、日々の生活不安におののく方々は、はたして劇場に足を運ぶでしょうか?
いや、こない。
きっとそれどころではないはずです。
その方々は、劇を見にこない。
手に取るようにわかります。

きっと、生活にチョッピリゆとりのある方々は、「未来への選択肢」が複数あった中で成長されてきたのではないでしょうか?多少なりとも、そうではないでしょうか。
だからオンリーワンだといえる。

生活不安におののく方々は、生活不安が強ければ強いほど「未来への選択肢」が限定されていきます。
アマルティア・センの言うように、貧困とは「選択肢が狭まること」なのです。
ですから極端な場合は、選択肢がたった一つ。

例えば「高校を出たら就職」という選択肢。
それ以外は考えられないという状態。
一見「本人の希望によって就職を選択した」ように見えていても、当事者の心の中では「就職しかない」と考えている、それしか考えられなくなっている状態。

いくつもある選択肢の中から、就職という選択肢を自分の意志で選択したのならいいんです。
何も問題がない。
しかし、当事者の主観においては「選択肢がなくて選択させられている」状態であるならば…。
これが問題なのです。

そんな渦中にある当事者からすれば、「オンリーワンでよい」と言われても、何か釈然としないものを抱え込んでしまいます。
ありのままの自分でよいと言われても、ありのままを選択したわけでなく、選択させられているのですから。

じつは当事者は「冗談じゃねえよ。オレはこの道しか選べなかったんだよ。オンリーワンとかしゃらくせえ」と思っているとしたら…。

どうも、これが冒頭に述べたもどかしさの正体のようです。

つまり、現実社会では「未来への選択肢」に格差がある。
これを希望格差といいます。
そんな社会の中では、「それぞれに一番である」と言う善意のオンリーワンの言葉が、当事者にとって納得のいかない言葉になり得る。
しかし、その言葉に当事者が納得していないかもしれないことを、言葉を吐く人間が気づいていないのではないだろうか?

それが、もどかしさの正体です。

かといって、「それぞれに一番である」というコメントを批判すれば事足りることではありません。
またこのような批判は、社会分断を加速させることにつながりかねないと思います。

観劇出来るくらいには生活にゆとりがある方々と、もはやそのゆとりすら失われた方々との間を分断して、一体何が生まれるのでしょう?

何も生まれない。

ほんとうの敵を見失って、お互いのいがみ合いだけが加速していくだけではないでしょうか?
かつてTVで繰り広げられた生活保護バッシングのように。

生活保護を受けている方々に対してのバッシングに、生活保護水準以下で頑張って暮らす人々が参加して、バッシングを加速させていく。
まるで「お前だけいい目を見やがって」と憎むかのような激しいバッシング。

いくらそれを加速させても、生活保護が受給しにくい状況は何も変わらない。
むしろ自分の首を締めただけになる。
そのような分断を煽ったのがTVでした。
それで一体誰か得したのか?

大切なことは、分断ではなく「見えなくされている当事者」のリアルな生活実態と感情が可視化されることだと思います。
共感が生まれる仕組みを創りだすことです。
少し古い言葉使いになりますが「民衆の連帯」を生み出すことです。

「民衆」という言葉は、もうまるで生きた化石。シーラカンスのような言葉ですね…。
死語と化したと言っても言いすぎではないでしょう。
しかし、いま、あえてその言葉を確信をもって使いたいと思っています。
大衆でも庶民でもなく

「民衆」。

この言葉でなければ、見えてこない景色があるのではないでしょうか?
私は、この言葉でなければ見えてこない景色を視たいのです。

さて、このブログは新作について書いているつもりです。
決して忘れているわけではありませんよ。
ここまでに書いできたこと、それは新作脚本の創作動機なのです。

私は、見えなくされている貧困を可視化し、共感を幾重にも組織したいのです。

ですから新作脚本では、現代の貧困にあえぐ子どもが、民話「貧乏神と福の神」を、完膚なきまで解体しつくします。
気持ちがよいくらい、木っ端微塵に打ち砕きます。

でも、この脚本全体に「ドラマの時間」が流れるためには、現代の貧困を生きる子どもを、生き生きと描き出す必要があるのです。

男の子だったら、まだやりやすい。
なぜなら、私自身が貧困の中で育ってきたから、感情の細かい機微までわかります。
でも女の子と設定するとすれば…?

苦しんでいます。
じつは、今度で4回目の書き直しです。

さあ、そろそろ書き直しにかからなくては…。
自分に厳しくがんばらないと…。

【釜】






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