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どんぐりと山猫稽古スタート

2020.08.21 (金)

暑い中、つくつくぼうしが鳴き、虫の音が元気になってきました。いつの間にか日暮れも早くなってきています。秋が忍び寄っているんですね。

さて、新作「どんぐりと山猫」読みあわせがはじまりました。初演は来年7月の「夏休みおやこ人形劇場」です。じっくりと作り込んでいきます。

今は、原作「どんぐりと山猫」をどう読みとくかの学びあいの時間。上演人数の変更もあり、台本もリニューアルしました。原作をどう読みとくかが、台本の主題に関わります。時間をかけた学びあいにしたいと思います。

「どんぐりと山猫」は、単なる「でくの坊礼賛」の物語ではないのです。ここが今回作品の出発点です。

もちろん宮澤賢治の生き方には、でくの坊に向けての下降指向が強くあります。それは、賢治の魅力の源泉の一つです。
身を切って血まみれになるような苛烈な賢治の生き方を、傷つかない安全圈から礼賛するようでは、それは偽善そのものです。そこから、通俗的な物語の罠にはまるのです。

「どんぐりと山猫」の演劇化や人形劇化には、そんなお気楽な偽善の匂いがつきまといがちです。
そのような作品が、じつはごまんとあふれています。
なんと通俗的な…。

そんな作品は、はっきり言ってつまらない。ワクワクもドキドキもしない。退屈。

今回作品製作にあたっては、通俗性を慎重に排除するところから、稽古を進めたいと思っています。

では「どんぐりと山猫」は、どんな作品なのでしょう?
私は「どんぐりと山猫」を「近代と野性」の交流と対立を描いた作品だと思っています。

私たちが疑いなく寄りかかっている近代の感受性と価値観に風穴を開ける、挑戦的な作品であると思うのです。
そんな賢治の指向性を指摘した本に、「森のゲリラ宮澤賢治」という本だってあるのです。

私たちは、狩猟採集民社会(野性の思考の世界)の感受性や価値観を感知することは、もはやできません。
それは、彼方に去ってしまった社会なのです。想像すらできないのです。

しかし、違った感受性と価値観の社会を感知することが出来れば、私たちは今の社会の「自明性の罠」から距離をとることが出来ます。
自明性の罠とは、あたりまえと思っていることが、ほんとはあたりまえではないことに気づかないことです。そんな罠のことです。
「どんぐりと山猫」は、そこまでの射程を内包している童話だと思います。

さあ、主人公一郎くんとともに、イーハトーブの世界に旅をしてみましょう。

強固な一つの価値観に支配されていないイーハトーブの世界。
そこで、かしましくも力強く「誰が偉いか」をエネルギッシュに競いあうどんぐりたち。そのどんぐりたちを、「まるでなってないのが一番偉い」と、薄っぺらなモラルで一喝してみましょう。一郎くんのように。

山猫のお礼に「黄金色のどんぐり」を選んでみましょう。
塩鮭の頭よりも、黄金色のどんぐりをあたりまえに選ぶ一郎くんのように。

そして、山猫からの葉書が二度と届かなくなる一郎くんの寂しさ(喪失感)を、一緒に味わってみましょう。

それは、一郎くんの寂しさであると同時に、私たちの抱える寂しさであると思うのです。なにか大切なものを置いてきてしまったような喪失感。

私たちはそんな寂しさを抱えながら、何を越えていけばよいのでしょうか。私たちも模索しながら、一郎くんにエールを送ってみたいと思います。

もちろん、創る側の意図とは違ったものを見つける御客様も大歓迎です。創る側の意図は、神様のように絶対のものではありません。

そして、子どもも大人も楽しめる作品に仕上げていきますよ。

さて、新作「どんぐりと山猫」製作の旅がはじまりました。ここで書いた地点まで行きつけるのでしょうか?

行きつきたいなぁ。行きつける力は蓄えてきているはずなのだから。

さあ、ゴール目指した一年間の長旅です。旅は楽しいもの。旅を楽しみながら歩んでまいります。

【釜】