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理論の意義

2021.01.09 (土)

雪に閉じ込められています。外での舞台製作作業も、あまりの寒さに風邪をひいたら大変と一時中断。
そこで、理論と創造と運動の相互関係を考えるために、内田義彦「社会認識の歩み」(岩波新書)を再読しました。

これは「理論の意義について考えるため」というよりも、たまたま再読した本から、「理論と創造と運動」の相互関係を考えてしまったといった方が正確ですが…。

さて内田義彦氏は、経済学史の専門家です。従って彼のいう「理論」とは、彼の専門からいって社会科学理論です。
ですが、文化運動(人形劇運動)である劇列車にとって「理論の意義」を考える際にも、十分有効だと思います。

内田氏は、ヨーロッパルネサンス期のダンテから解き起こします。ダンテの有名な作品「神曲」では、人間とは「賭けることの出来る存在」として描かれます。

つまり、人間が人間である限り自分で決断をし、自分で責任をとらなければならない存在であると描かれるのです。
決断できない人間は、「神曲」では地獄にすら入れない惨めな霊として描かれるのです。
(これはあくまで近代を貫く価値観です。ネオリベラリズムのエゴイズムを正当化するいちじくの葉である「自己責任論」とは全く違うものであることを付記しておきます。もっともネオリベラリズムが、近代の鬼っ子であることも事実ですが…)。

つまりダンテは、神に依存せすに、運命にまかれずに、自ら決断する「個人」という観念を生み出したわけです。これすなわち「近代」の誕生です。いいかえれば、「近代人」の誕生です。

難しく聞こえるならば、
「もののけ姫」登場人物の中で、「唯一の近代人はエボシである。他の人物はアシタカを含めて右往左往しているだけ」と宮崎駿氏がいい放った、あの「近代人」であるといいかえることも出来ます。

従ってというべきか、高校世界史では、ダンテ「神曲」は近代黎明期の作品として教えられますが、これはダンテに対する全く正当な評価でしょう。

けれども、「自分自身の決断と選択は果たして正しいのか?」誰もが不安になります。
マルクスは「汝自身の道を歩め、人をして語るにまかせよ」と言いましたが、実際に決断し選択するとなると、これは不安になりつらいことでもあります。

ですから、「個人としての人間」は、自己と周囲の世界について客観的認識を求めることになったのです。
これが社会認識の端緒であるのです。
内田氏はそういうのです。

もっとも社会認識の端緒とは、あくまで端緒であって、まだ社会科学的認識ではありません。
しかし、その端緒がなければ、社会科学は生まれなかったのです。

こうして考えてみると、社会科学は近代が生み出したものであるといえるのでしょう。

さて理論とは、このように、まずは個人としての自己(または個人の集合体である集団)への客観的認識から生まれるのです。
「決断と選択が不安であり迷いもあるから、それを可能な限り客観的にとらえたい」。その衝動から生まれ、かつ必要とされるものなのです。

言い替えれば、理論は「自分の問題」として出てくるのです。
このことを、自己と集団の再定義作業とも言い替えることも可能でしょう。

とするならば、理論とは近代人にとって必須のものであるといえます。決してお飾りではなく、生きるために必須のものなのですね。

さて、話しを少し拡大してみます。

どんな人間も社会的存在であり、社会制度と切り離して考えることは不可能です。つまり人間は「類的存在」なのです。

例えてみます。
私たちは「人形劇団」ですから、「人形劇団」という呼称で自己了解をし、他者了解もされます。社会存在ですから、どうしてもそうなりますし、それを否定していては活動が成り立ちません。
しかし、それではちょっと困るのです。

なぜなら、社会制度の中に生きるものとして、自己了解、他者了解を完結するならば、そこから一歩も出られなくなってしまうからです。

社会制度の中で「主体的」に考えるだけでなく、「私たち人間が制度を創るのだ」ということになってはじめて、学問や芸術創造が生まれてくるからです。

もっとも内田氏の「社会認識の歩み」の守備範囲は、もっぱら「学問」であって「芸術」ではないのですが…。

しかし、学問も芸術も「社会的網の目の変更行為」としてとらえるならば、精神労働としては同じものであり、方法論か違うジャンルなのです。
(もちろんこれは、粗っぽいとらえ方です。ですがまずは大掴みにとらえた方が、狭苦しい専門化をせずに済みます。狭い専門化は、創造の枯渇につながるものだと思います)。

さてこのためにも、理論が必要とされます。
これは、さっきの自己の客観的認識の理論とはいささか毛色か違います。創造のために社会的網の目という「常識」と「日常性」を食い破るための、見晴台としての理論です。創造は日常性から離陸したところで行われる作業です。
この見晴台としての理論は、芸術ジャンルでは往々にして直観に頼る場合もあるようです。

さて最後に。

学問にしろ芸術にしろ、理論は先人の業績の断片を自らの経験に位置付けていくことからはじまります。本を読んだり、舞台をみたり…。間違ってならないことは、「あの舞台はすばらしい」などの一般的評価を実証するために観るのではなく、自らの眼で観るということです。
これが学ぶということです。

学ぶとは、体系を知ることではなく、断片を自らにつなぎあわせながら「体系的に考える」ということなのです。
そこから次第に、熟成して良酒が生まれるように、自らの体系が生まれていくのだと思います。

このことを、じつは「オリジナリティ」というのです。

さて、雪に閉じ込められている中で生まれたゆとり時間を使って、「理論の意義」について、内田氏の論理展開に従いながら、書き綴ってみました。

劇列車は、理論を必要としています。
なぜなら、運動としての劇列車は、もはや前人未到の域を独りテクテクと歩いているからです。
(断っておきますが、運動とは人数ではないのです。人数がただ多いだけの「うどの大木」的運動が「運動の堕落」を作り出すのを、掃いて捨てるくらい見てきました。人数が少ないからといって自己卑下は全く必要ないと思います)。

そのために、自己への客観的認識として理論構築の必要を痛感しています。

一方で、創造の見晴台としての理論も必要としています。
まだまだ頼りない創造水準であることは自覚しています。
しかし、見晴台としての理論を持たなければ、いつまでたっても前人未到の域に到達することはありえないのです。

【釜】