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頓田の森、コリアン、辺野古、高江

2011.12.22 (木)

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今日は冬至。
夏至から一年の半分をかけて、夜が長くなってきた。
明日から一年の半分をかけて、昼が長くなっていく。
地球の規則的リズムに、天界を感じる。

5時半に起きて、走りだして5年。
思うに、人間は都市の人工空間に居住し仕事をしているだけでは、やはりダメなのではなかろうか。
感性も思考も、自然をスポイルしたものとなっていく。

それは、そもそも人間の自然体に反したことではなかろうか。
そう思えてならない。

さて、今日は来年3月の頓田の森ぴーすきゃんどるナイト開催の初回打ち合わせ。
甘木まで行くことになる。

地域に住むということは、それぞれの土地の記憶を体に取り込むということでもある。
土地の記憶を体に取り込むことで、私たちは過去と未来とにつながっていく。
そうしてはじめて、人間は「ただの現在」に生きる存在から、過去から未来につながる「歴史的存在」に成ることができるのだ、と思っている。

自分を「歴史的存在」と認知できるようになれば、世代間倫理に真っ向から反した原発など、とうてい飲み込めない存在だ。
「ただの現在」に生きる人間しか、ああいったシロモノは、発想できない。

話がそれたが、頓田の森ぴーすきゃんどるナイトは、土地に眠る記憶を、年一回呼びさまし、私たちが心に刻み直す行為だと思っている。

その行為は、巷に流通している思考の枠組みに止まってはならない。
「悲惨さを忘れないために」「平和の大切さを噛みしめるために」…。大事なことだ。
ただその思考枠内で、頓田の森ぴーすきゃんどるナイトを考えてはいけないと思っている。

記憶を刻み直す行為は、頓田の森で一命をとりとめ朝鮮に帰って朝鮮戦争で戦死した一人の少年の記憶も呼び覚ます。
その呼び覚まされる記憶を封印しないことだ。

呼び覚まされる一人のコリアン少年の記憶は、この国の侵略的過去、在日コリアンというディアスポラを生み出した過去、日本大使館の前に少女像が建立される過去とつながっていく。

また「平和の大切さ」を噛みしめることは、今なお戦争状態が続いている沖縄をスポイルせずに感知する思考枠組みに、のせていかないといけない。

米国と一体となって沖縄を陵辱し続ける政府の行為に、体を張って阻んでいる辺野古や高江の人々の声を聞き取る感受性がない「平和の大切さ」に意味があるのだろうか。
大いに疑問だ。
おそらく、そんな「平和の大切さ」を訴える声は、排他的市民生活を「