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おやこ人形劇場と対話のひろばを終えて

2022.07.18 (月)

昨日7月17日日曜日、おやこ人形劇場(石橋文化センター小ホール)を、約100名の御観劇で無事に終えました。

特に15時の回は、今回初試みの「対話のひろば」付き。
対話のひろばへの参加者は30名を越えました。

参加された市民や高校生、教職員の皆様、御参加いただきありがとうございました。
善き充実した時間でした。

発言された高校生や市民の皆様の声、一つひとつが貴重なものだったと思います。
終わってのボランティアの方からの声を紹介してみます。

「噛み合わない話だったけれども、無理に噛み合わせると面白くなくなる」

その通りだと思います。噛み合わせることが目的ではありません。
私たちの人形演劇を観て感じたこと、思ったことを出しあい、それぞれの発言から、お互いに気づき合う。
何を気づくかは、それぞれに任されます。
その意味で、昨日の「対話のひろば」は、大成功だったと思います。

それにしても、考えてみれば、劇を観た見知らぬ者同士が、その場で語り合うことは滅多にありません。
それが出来たということは凄いことなのだと思います。
昨日行ってみて、あらためてそう確信しました。

ありそうで、周りを見渡すと、そんな場はなかなかありません。
外観はアフタートークとよく似ています。
しかし中身は全く違うものなのです。
主役は劇を創った者でも演じた者でもなく、劇を観た皆様なのですから。
アフタートークよりも、はるかに面白い。
行ってみての実感です。

誰もが対等で、いろんな意見に耳を傾ける。
そこで起こるある種の「化学反応」を楽しむ。
そんな場が、もっともっと広がることを願います。

昨日の「対話のひろば」で発言されていなくても、話したくて話したくてウズウズしてあった方々も、いらっしゃると思います。
今後は、そんな方々がもっと自由に発言出来る場にしていくために、もっと「対話のひろばに」改善を加えていきたいと考えています。

事前に劇についての情報を得る→劇を観る→語り合う。
そんなサイクルを創りあげていけたらと思います。
なぜなら、本来劇を観ることは、そういうことなのだと考えるからです。

今回お手伝いいただいたボランティアの皆様、「対話のひろば」のコーディネーターをしていただいた竹島さん、そして技術スタッフの皆様、ありがとうございました。
おかげで、とてもよい場と時間が出来ました。

さて今からは、お盆前までに3ヶ所を回る夏の公演期間を迎えます。
作品は「どんぐりと山猫というはなし」と「ちょうふく山のやまんば」。
明日は早速、会場下見に出かけます。

【釜】






楽しみな対話のひろば

2022.07.07 (木)

7月17日おやこ人形劇場「どんぐりと山猫というはなし」上演が、近づいてきました。

前にもブログで書きましたが、今回上演の最大の特徴は、終演後に「対話のひろば」が併設されていることです(15時の回のみ)。

対話のひろばは、いわゆるアフタートークとは違います。
上演側の発言もありますが、観客の皆さんは聞き役だけではありません。
むしろ上演側よりも、観客の皆さんの発言で場を創っていく。
ここにもっとも大きな特徴があります。

劇を観ての発言は、当然ですが、一人ひとり違うものでしょう。
劇を観ての一人ひとり違う発言をお互いが聞き合う。その事で、一人ひとりの気づきが生まれるのでは?
それが対話のひろばのねらいです。

一人の気づきが、対話の中でポリフォニー的(多声的)で豊かな気づきへと広がっていく。
それは一人の気づきを否定するものではありません。一人の気づきがより豊かに深まり広がっていくことだと思います。

何か結論を出すのではなく、観客の皆さんの発言によって、相互的な気づきを生み出されること期待する。

そんな、時間的には短い集いが「対話のひろば」なのです。

参加者は、小学生から高校生、大人まで。
年齢的にも多様な参加者の皆さんになりそうです。
いったいどんな会になるのか?とてもスリリングですね。

大人がしゃべり、こどもが聞く。それが普通の社会(学校の朝礼ってそうですよね)です。
それが違って、こどものしゃべりに大人が耳を傾ける。
家庭ではあり得ても、公の場ではまずまずありません。
でも、そんな場が生まれたら、どんなに素敵なことでしょう。

皆さんご存じですか?国連子どもの権利条約は、子どもの意見表明権を大切にしています。
年齢に応じて、子どもの意見は、正当に尊重される。それが子どもの意見表明権です。

こどもの意見に大人が耳を傾ける。
違う意見に、大勢の人が耳を傾ける。
それは個人の尊厳性という人権保障の土台を創ります。

さて対話のひろばでは、大人の意見も高校生の意見も大歓迎です。
私たちは、対話のひろばをとても楽しみにしているのです。

【釜】






演劇と教育研究委員会立ち上がる

2022.06.29 (水)

梅雨も、もう明けました。雨が上がるとすっかり夏空です。

さて、「演劇と教育研究委員会」の参加者募集を開始していますので、皆さんにお知らせいたします。

「演劇と教育研究委員会」は、舞台アート工房・劇列車の組織内委員会として立ち上げましたが、会員以外の方々の参加も可能なオープンな研究と討論の場です。
ぜひ、参加を御検討くだされば幸いです。

演劇教育とは、おおかたの皆さんにとっては馴染みのない言葉かも知れません。

官僚的システムの中にある教育を、官僚的システムの外にある演劇から問いなおす。それが演劇教育です。

教育を内側からとらえるだけでなく、演劇的知という外側からの視点で問いなおす。
人間の発達を大きな眼差しで問いなおし、実践を構築し、ひいては社会を問いなおしていく。
それが演劇教育です。

演劇教育は、表現力やコミュニケーション力を開発する手法と理解されるケースがよくあります。
その理解はわかりやすい。
「表現力が足りないから身につけさせましょう」的な。

その理解も間違っているわけではありませんし、
その大切さを否定するものではありません。
その手法を学び実践することは大事なことです。

しかしその位置付けのみでは、演劇教育が持つ「人間や社会の在り方と教育の在り方を問い返すラディカリズム」を失ってしまうことになりかねません。
演劇教育の豊かな可能性を取りこぼすことにもなりかねないと思います。

このラディカリズムこそが、演劇教育の根底的な必要性であり、可能性であると思えます。
そしてその地平での演劇教育は、他の教育運動(人権教育や協同的学び、集団づくり教育など)と関連しあっていますし、手をとりあえっていけるものだと思います。

私たちは、演劇をとおして教育の在り方を根源的に問いなおしたいのです。
いまを生きるこどもと大人のために。
教育を問いなおすことは、社会と人間を問いなおすことです。
私たちの「あたりまえ」を問いなおすことです。

ですから教育は、閉ざされた教育専門職だけに語らせてはなりません。
教育は、市民の対話の中に引っ張り出されないといけない。

すでに、現在参加表明をされてある方もおり、会員外の方からの問い合わせも来ております。

少ない人数で、じっくりと、地味に継続させたいと考えています。
小粒ながらも無理なく持続できる、自由な対話の場に育てていきたいものです。
そのような場が無数にあること、そんなことが今の社会には求められています。
この認識は間違っていないと思いますが、いかがでしょうか?

人間の発達に関心のある全ての市民の皆さんのご参加を待っています。

第一回開催日。
8月28日(日)13時30分†15時30分。
アトリエ山猫舎(朝倉市秋月197)。
参加費無料。

第一回目のテーマ。
「コロナ禍とこども~演劇教育からみてみると?」

■コロナ禍での長期にわたる休校、同時に進んだオンライン授業やICT教育。
それはどんな影響をこどもに及ぼしているのでしょうか?
演劇教育は対面性と身体性を土台とします。
その観点から「こどものいま」をとらえてみたいと思います。

参加を御希望の方は8月8日(月)までに、info@dramatrain.jpへ御連絡ください。

【釜】






ボランティアの包括的研修会

2022.06.23 (木)

26日日曜日は、劇列車の「ボランティアの包括的研修会」(アトリエ山猫舎にて)。
レジメの準備も出来ました。用意万端です。

さて、私たち舞台アート工房・劇列車は「社会課題を解決する、創造部門を併設したアート系NPO」です。

通り名としては、人形劇団と名乗ることもありましたし、今もそう名乗る場合もあります。(作品を創造し、公演活動をしていますから、それは決して間違いではありません。これからも人形劇団と名乗る場合もあるでしょう)。

一方で、それではどうも、ジグソーパズルの最後の1ピースが上手くはまらないのです。
それを無理やりはめてきた感覚があるのですが、どこかに無理があり続けています。

そこで、今年の理事会総会議案書にて、劇列車の自己定義を再定義したわけです。
「社会課題を解決する、創造部門を併設したアート系NPO」と。

なんで自己定義を再定義したのか?
もう少し踏み込んでみます。

それは、2020年度のパペットシアターPROJECT(困難を抱えるこどもへの人形劇観劇体験支援事業)開始が、私たちの大きな転機であったからです。

パペットシアターは、今まで私たちが踏み出そうとしては、財政的裏付けがなくて踏み出せなかった事業でした。

それがちくご川コミュニティ財団様の「子ども若者応援助成」に採択されたことで、困難を抱えたこともへの支援事業の本格的スタートを、一気に切ることが出来ました。

すると、今まで見えなかった景色が見えてきました。
不思議ですね。
ほんとうに遠くまで見わたせる。

それは作品創造にまで反映しました。
ここから後、私たちの作品は大きく変わり始めています。
いわば「なぜ創るのか?なぜ表現するか?」という根源的(ラディカル)な問いに、自分たちの明確な答えを持つようになったのです。

それほどパペットシアターの実施実現の意味は大きかったのです。

それはまた劇列車という組織の見直しにもつながりました。
「NPOという形をとった劇団」なのか?それとも「NPOが創造部門を併設している」のか?

これはどちらでもよいように見えて、大きな違いになります。
今までそこを詰めていませんでした。
それでも事業展開での支障はなかったとも言えます。
(もちろん、その都度都度必死に頑張ってきたのです。単純に支障がなかったわけではありません)。

しかし今、私たちが直面している事業、私たちが切り開こうとしている事業は、私たちの組織が今まで以上に階段を登ることを要求しています。

この新しい状況に対応して、新しい考え(経験と学びに裏打ちされた新しい考え方)での研修会が必要になっています。
それが「ボランティアの包括的研修会」です。

コアサポーター会員の皆様、どうぞお越し下さい。
NPOという未来指向の組織とは、どんな組織なのか。
NPOの第一の顧客と第二の顧客とは何か。
劇列車事務局は現状をどう見ているのか。
ボランティアに求められるものは何か。

劇列車に対して持つ古い見方を刷新して、直面している状況に対応出来る新しい感覚と考えを共有し合う会です。
充実した学びの時間になることを願っています。

今私たちは、ローカルに活動しながらも、ユニークで普遍的な性格を持つ芸術創造と社会運動に乗り出しています。

なぜユニークになるのか?
それは、私たちが私たちの体験から学び、研究し、私たちの言葉を紡いで来たからです。
借り物の言葉は使わない。つまり地に足をつけて歩いて来たからです。(相変わらすの零細NPOですけどね)。

でも最後に言っておきます。
私たちは、計量的思考の世界にならされています。
ですから、零細だと「たいしたことない」と考えてしまいがちです。
でもほんとうにそうでしょうか?
数だけ大い図体のデカイ組織が、ウドの大木に成り果てている景色を、私たちは普通に見ているのではないでしょうか?

「何をなすか」は、数の力で計る計量的発想では計れないものなのです。


【釜】






トークイベント、ジェンダーと多様性

2022.06.12 (日)

梅雨の晴れ間の紫陽花があでやかですね。

さて、昨日は久留米シティプラザ主催のトークイベント「劇場で考える~ジェンダー・多様性」に参加してみました。

このような他団体(劇場ふくむ)の主催イベントに参加した時、ブログに感想をあげることは滅多にしないのですが、このトークイベントには感想を書いておきたいと思い、あえて取り上げてみます。
扱っている社会的テーマ「ジェンダー」も、鋭く公共性の磁場にあるものです。
取り上げる意味はある。そう思います。

さて、このトークイベントは「新しい演劇鑑賞教室」の一環として開催されたプレイベントであるそうです。

演劇鑑賞は「学びの行為である」という主催者の認識には、両手をあげて賛成するものです。

プレイベントから作品鑑賞と事後対話までを一連の流れと考えて、演劇鑑賞教室の一つの実践事例として構築しようとする試みは、意欲的な試みであり、大いに賛同するものです。
このような演劇鑑賞教室が今後広がることを期待します。

昨日のゲストの話でも指摘してあったように、舞台上で自己とはちがった論理で行動する登場人物たち(つまりは、自己とちがった他者たち)から、様々な気づきと発見を得ていくことは、とても大切なことです。

だから演劇鑑賞行為は、学びの場になるのですし、劇場は教育機関であり得るのです。

つまり、劇場とは「自立した市民」としての自己形成の場。
全く異論はありません。

一方で、このトークイベントには、あるモヤモヤ感を残されたことも事実です。
それは私個人が感じたことですから、参加された皆さんと共有できるものではありませんが…。

感じたモヤモヤ感の正体はなんなのか?
少し考えてみたいと思います。

ジェンダー問題は、フェミニズム思想が暴き出した「見えない問題」であります。
見えないがゆえに、言語化しにくい。言語化しにくいゆえに、自覚されにくい。
そんな問題群がジェンダー問題でありましょう。

けれども、この問題群はは確実に「生きがたさ」や「生きる困難」と結びついています。
この問題群の中で苦しんでいる人々が多くいます。
だからこそ、切実な問題群であるのです。

まだフェミニズムという言葉すらなかった時代。

ウーマンリブの担い手たちもそうであったでしょうし、更に遡るならば、筑豊でサークル村運動を担った森崎和江も、そうであったでしょう。

フェミニズムという言葉は使っていなくとも、彼女たちは、自己の生きがたさを生む社会的な問題と格闘してきた存在であります。

ウーマンリブの担い手たちも、森崎和江も、自己の生きがたさを抱え、その原因を必死に考察し、言語化し、運動を展開していったのでした。
いわば、彼女たちに対してある見方をすれば、彼女たちはフェミニズムの先駆者たちであったと言っていい。

さて、フェミニズムの原点は、人間解放にあります。
ですからフェミニズムは、生きがたさや生きる困難からの解放思想であるのです。

そこには、社会の片隅に追いやられ、自己を語る言葉を持ち得ず、見えなくされている人々(不可視の人々)への共感と連帯があるはずです。

フェミニズムは、男性と女性が対等になることだけではない。
(もちろんこれを軽視しているわけではありませんし、軽視できるものでもありません)。

どんな人間であっても、見えない壁に阻まれて潜在的可能性を奪われてはならない。
そんな原点をもった思想がフェミニズムであり、言葉を持たず見えなくされた人々に立脚した運動が、フェミニズム運動なのです。

とするならば、昨日のトークイベントは、このような抑圧された人々への連帯の眼差しを持って、具体的な対応がなされていたのでしょうか?
そこに疑問を感じたのでした。
これはないものねだりでしょうか?
そんなことがモヤモヤ感の正体だったと思います。

おカネも社会的権威も権力も持たない人々に対して、抑圧はもっとも苛烈に牙歯を剥きだします。

ですからフェミニズム思想をもっとも必要とする人々に、自己を解放に導く強力な武器を提供しなくてはなりません。
劇場の公共的使命を考えるならば、ここは抜かせない構えであると思います。
これこそもっとも大切なことだと思われるのです。

劇場に来ない人々こそ、近い未来の顧客です。
来ない人々は「関心ない人々」ではないのです。
特に、鋭く公共性の磁場を帯びた問題を取り上げる際は、その構えが必要だと思うのです。

これは皮肉な言い方になって申し訳ないのですが、相対的にゆとりのある(と思われる)「意識高い系」の人々にもフェミニズム思想は必要でしょうが、もっと切実にそれを必要とする人々がまだいる。

そんな人々は、往々にして「自分が必要としている」とは自覚していません。
フェミニズムの「フ」すら知らないこともよくあります。

ですから、彼女たち(彼ら)を劇場に足を運んでもらうのは、極めて困難なことであるでしょう。
しかし劇場という場は、そんな困難な事業を実践していく社会的使命を背負った場なのです。

私たちは、様々な困難を抱えた子どもへの人形劇観劇支援事業を、事業の中核と位置づけて歩んできています。
だからこそ、今回のトークイベントは、ダルマを作って目玉を描いていない企画に思えてしまいます。
目玉とは、届けるべき当事者という存在の自覚です。

私たちのような零細NPOであっても、ささやかな有効性ある実践を積み上げることは出来ますし、事実積み上げてきました。

とするならば、久留米シティプラザのような地域の中核的公共劇場ができないはずはありません。

社会的信頼度においても、人的ネットワークにしても、使えるおカネでも、私たちとは格段にちがっているはずです。
弱者への眼差しから事業を構築し、その眼差しから事業を振り返って欲しいと願うものです。

ユースプログラムだから趣旨がちがう、ではありません。
弱者への眼差しと、劇場への参入障壁(ハビトゥス)への配慮は、どんな事業にあっても必要です。

最初に申しました通り「新しい演劇鑑賞教室」の発想と思考には、全面的に賛成するものです。ここで書いた感想は、いちゃもんをつけたくて書いたのではありません。

せっかくの意欲的取り組みです。それがある部分において惜しいことになっている。
そこを書いておきたいと思ったのでした。

この新しい演劇鑑賞教室が、充実した意欲的展開になることを祈っています。

【釜】






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