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人形劇であそぼ!募集開始しました

2021.02.15 (月)

めっきり春めいてきていますね。

さて、「人形劇であそぼ!~つくって、みて、あそぼう」(子どもゆめ基金助成企画)参加受付をはじめました。

■期日3月21日(日)
■時間13時30分~16時30分。
■場所朝倉市総合市民センターピーポート甘木。
■費用子ども300円、大人400円。

■内容
・劇列車の人形劇「ちょうふく山のやまんば」観劇。(舞台裏見学含む)
・発泡スチロールを使った簡単な人形劇人形工作体験。
ご自分で作られた人形を使って、簡単な人形劇あそびにチャレンジしてみましょう!

「人形劇であそぼ!」は、人形劇をみたことのない親子の皆さんや、やったことない親子の皆さんに向けた、体験ワークショップです。

人形劇の実際を観て、人形劇人形を創ってみます。きっと楽しい時間を、親子で共有できると思います。

日頃、多忙で子どもとふれあう時間をとりにくいお父さんやお母さん。
子どものあそびが、ゲームに偏り過ぎていると心配してあるお父さんやお母さん。
参加してみて、楽しい創造的な時間を過ごしてみませんか?

誰でも参加できて、参加のハードルも高くないワークショップ、それが「人形劇であそぼ!」です。

※追記:三密回避出来る余裕あるスペースでのワークショップです。
コロナウィルス感染防止対策を実施します。参加を御検討の皆様、御協力をお願い致します。

【釜】






どんぐりと山猫はどんな物語か?

2021.02.08 (月)

2月になりました。冬の星座オリオン座の南中時刻もずいぶんと早くなりました。梅も開花し、菜の花も花ひらくようになりました。

さて、新作「どんぐりと山猫」も少しずつ輪郭を表しはじめました。人形の身体行動の明確化や、登場人物たちの行動論理、感情の肉付けが始まりました。そして視角表現の輪郭の明確化。
以上の事柄の様々な試行錯誤。

そして思うのですが、やはり人形劇(演劇)も芸術一般も哲学なのですね。哲学では、自らの生活や感情や思考を、普段とは違った角度からとらえてみることで、「信じて疑わないあたりまえの常識」をいったん相対化してみます。それが哲学的思考なのです。
言いかえれば、自己をがんじがらめにしている社会的網の目を、いったんほどき、結び直す行為であるといってよいものです。

もちろん芸術は狭義の哲学ではありませんが、広義の意味で哲学行為であるといえるのです。
また哲学的思考の表現は、論文に限らす音楽や演劇や絵画としても表現されます。

例えば、民俗芸能である「神楽」も、自然界へのアニミズム的感受性と自然界との折り合いのつけかた(いいかえると世界観)を土台にした民衆芸能です。

「神楽」は村落共同体を基盤として、村落共同体が共有する世界観を舞っているのです。
つまり、神楽とは、村落共同体が共有する世界観の表現であるわけです。
神楽の機能は、村落共同体の結び直しにあるのでしょうが、神楽の本質は、共有された世界観の集団的表現にあるのだと思えます。

(ここで言っている世界観は、世界の意味付ける見方のことです。論理化されていない情意的なものも含みます。哲学には世界観が伴いますので、ここでは哲学と世界観をほぼ同じ意味と了解して、話しをすすめます。もちろん哲学の守備範囲は、世界観の認識が土台となって、様々なテーマに分岐していっているわけですが…。)

「どんぐりと山猫」は、宮沢賢治の哲学の文学的表現作品です。
この作品が納められている童話集「注文の多い料理店」全体が、彼の世界観の文学的表現集であるといってよいと考えます。
そうすると、あの有名な序文の意味も鮮明にみえてきます。

「けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。」

ほんとうのたべものとは、法華経と科学と社会的実践を土台とした彼の世界観(哲学)そのものを指しているのでしょう。
もちろん文学的味わいを指す言葉でありましょうが、賢治という人物の文学に向き合う姿勢を考えると、文学的意匠のみが「ほんとうのたべもの」であるなどと考えていたとは、とうてい思えないのです。

そう考えると、賢治自らが書いた「注文の多い料理店新刊案内」広告文の意味も、新たな視角から新たな顔を見せてきます。

広告文は以下の通りです。

童話「どんぐりと山猫」は「必ず比較されなければならないいまの学童たちの内奥からの反響です。」

童話「注文の多い料理店」は「糧に乏しい村のこどもらが、都会文明と放恣な階級に対するやむにやまれない反感です。」

このような作者本人文章で広告された内容は、それぞれの童話本文のなかには見当たりません。(あくまで字面を読めばという範囲での話しですが。)

そもそも「注文の多い料理店」に、村のこどもらは登場しません。
「どんぐりと山猫」に、直接一郎くんの心の内面が描かれているわけでもありません。

しかし、明らかに賢治の作品創造の動機は、広告文に書かれたところにはあり、彼の内部にある世界観(哲学)から生まれた表現衝動にあったと思われます。

では「どんぐりと山猫」から読みとれる彼の哲学とは、どんなものなのでしょうか。

そのとっかかりとして、上述の広告文に書かれた「必ず比較されなければならないいまの学童」という文章を使ってみたいと思います。

まず「比較される」と書いてありますが、比較するには、比較のための物指しがあってはじめて成り立ちます。
比較する際に、物指しは必須なアイテムなのです。

私たちが慣れ親しんだ比較の物指しは、数字による比較でしょうか。偏差値、合格率、生産性、GDPなどなど…。

「どんぐりと山猫」では、「まるでなってないのが一番えらい」という言葉で、それをひっくり返されてしまいます。

とするならば、主人公一郎が提示したこのナンセンスな物指しが、比較の物指しとして優れている、と賢治は言いたいのでしょうか?

そうは思えないのです。この物語は、ナンセンスな物指しを提示した一郎くんに、それから「(誘いの)はがきは、もうきませんでした。」
と物語は締めくくられるのです。
到底、賢治がこのナンセンスな物指しに同調していたとは思えません。

とするならば、「どんぐりと山猫」は、よく言われがちな「まるでなってないのが一番えらい」という「でくのぼう讃歌」ではないのです。

(彼の晩年の詩的メモ「雨ニモ負ケズ」には、確かに倫理としてのでくのぼう志向が強く見られます。ですが「どんぐりと山猫」に、潜在的にでくのぼう志向があったとしても、それが作品の主題となっているとは思えません。
そもそも「注文の多い料理店」童話集は、イーハトーブ年代記なのです。年代記として、賢治の世界観が表現されています。そこに、ぽかの掲載作品群の主題と異質な「でくのぼう讃歌」の作品を、童話集に入れるとは思えない。それも童話集の冒頭作品として。)

また「どんぐりと山猫」が、でくのぼう讃歌ならば、「やっぱり、出頭すべしと書いてもいいと言えばよかったと、一郎はどきどき思うのです。」と、一郎くんが後悔するはずもないのです。
しかもこの文章は、童話のいよいよ最後の結語です。

さて、「どんぐりと山猫」読者に内在するであろう通俗観念は、主人公一郎くんにナンセンスな「まるでなってないのがえらい」という物指しでひっくり返されます。
そして作者賢治自身の手によって、一郎くんの提示した物指しも、物語の最後にひっくり返されるのです。

では、何が一番なのでしょうか?賢治はどんな物指しで一番を決めればよいと言っているのでしょうか?

いえいえ。「何が一番よいのか」と考えること自体が、物語ては否定されているのでしょう。
山猫裁判長は「裁判も三日目だぞ。いい加減に仲直りしたらどうだ。」とばかり繰り返すのです。山猫は、ひたすら「仲直り」をけしかけます。

裁判長自らが、「どんぐりの一番を決める裁判」に、物指しを示さないのですから、これでは裁判が混乱するのもあたりまえです。ここがポイントです。山猫には一番を決める物指しをもつ発想がないのです。

さて、一番に価値があるという価値観は、どこから生まれたのでしょうか。少なくともその価値観が広範囲な人々をとらえるほど、魔力をもったのは、いつからなのでしょうか。

日本史を振り返るならば、歴史は明治期に「学校」が生み出したものだということを教えてくれます。
つまり、明治=近代=学校の等式が、「一番がよい」という価値観を生み出したものの正体でしょう。
(哲学者鶴見俊介氏は、「学校」が生み出し、日本社会に根付いた明治から続く「一番がよい」という「一番病価値観」を繰り返し批判してきました)。


とするならば「どんぐりと山猫」は、一番を生み出す物指しを、逆の価値観でひっくり返し、さらにその逆の価値観もひっくり返してしまう物語なのです。
「近代」をでんぐり返してみるまで至るかもしれない、広く深い射程をもった物語なのだと思うのです。

では、問いを重ねてみます。
なぜでんぐり返してみないといけないのでしょうか?その動機と理由は?

そこに「内奥からの反響」があるからです。比較される人間の心の奥底で反響する何か。
木霊のような微かな反響。
どこか妙に気になる、懐かしくも手が届かない反響。

読者に、この反響(木霊)に耳を澄してもらうこと。
このイーハトーブ裁判騒動物語を読んで、心に細やかに広がる微かな反響に、耳を澄ましてもらうこと。
それが「どんぐりと山猫」が書かれた動機と理由だと思うのです。

では賢治は、読者になぜ耳を澄ましてもらいたいたのでしょうか?

それは、彼にはその反響が聞こえているからです。
「私に聞こえる反響を、他者にも聞いてほしい。もしかしたら、価値あることかもしれないから。」ということだったのでしょう。

彼は「注文の多い料理店」序文に、このようにも書いています。

「これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。」

賢治は、林や野原や、虹や月あかりから、たしかに聞いていたのです。
もちろん、それが聞こえてくるためには、資質、知識、感受性というものが必要でしょうが…。

さて、「どんぐりと山猫」という童話文学に流れる世界観(哲学)を、あぶり出してみました。
原作を脚色するには、原作の本質をつかむことだと言われますが、私は「どんぐりの山猫」の本質を、このようにつかんでみています。

稽古とは集団作業です。創造に携わる集団では、まずはこのようなことが議論されなければならないと思えます。
「議論による共有」。ここから稽古がはじまります。

稽古とは、台詞を覚えて動きをつけることではありません。
稽古とは、議論と集団思考作業が土台となっていなくてはなりません。これは飾りものではなく、真剣勝負の作業です。
真剣勝負にならないと、この作業は意味をなさないのです。

そのうえで、行動の論理や感情の流れを追っていくのです。そして、行動や感情を、モノである人形の動きに変換していくのです。
そのために表現の仮説をたて、何度も実験が繰り返し試されます。
議論と共有という土台にも、何度もたち戻ります。
一方で、舞台装置や人形美術、衣装、音とあかり、そんな作業も進みます。一日一日が大切に使われないと、先に進めません。

そうして、じょじょに人形劇としての「どんぐりと山猫」が姿を現してくるのです。

【釜】






平和の土台を創る

2021.01.31 (日)

頓田の森ぴーすきゃんどるナイトの準備が進んでいます。
毎年3月27日の戦争悲劇の日に集まり続けて、今年で14回目となるぴーすきゃんどるナイト。ということは14年目となるということですね。心づくしの寄付だけで会を運営してきましたが、よくぞ続いてきたものです。それも、参加された皆様のご好意の賜です。
そんな市民の皆さんに支えられて、細々とながら続けることが出来ました。

催しの運営主体も「舞台アート工房・劇列車」から「舞台アート工房・劇列車と市民の会」、それから「頓田の森ぴーすきゃんどるの会」へと変化してきました。
「頓田の森ぴーすきゃんどるの会」に変わった時から、劇列車内部の事業計画からは外しましたが、劇列車は相変わらず、ぴーすきゃんどるナイトの運営に関わり続けています。

この会を立ち上げたそもそものきっかけは、頓田の森事件を描いた絵本「しいの木はよみがえった」の演劇化したことにありました。
作品はいつかは終演するけれども、現実の継承問題はあり続けるのですから、この作品をご縁として、現実の継承運動に踏み込もうとしたのです。

最近でも、大刀洗空襲継承の演劇を福岡市のセミプロ劇団がやったようですが、私に言わせるならば、その姿勢に信用ならぬものを感じてしまいます。

もしかしたら、誠意を持って取り組まれたのかもしれません。だったらなぜ作品の終演後に現実の継承運動に取り組まれないのでしょうか?
そこ、私は、欺瞞の臭いを感じてしまうのです。

もちろん、演劇というフィクションと現実は次元の違うものです。現実の運動の側から「欺瞞的だ」と批判することは、演劇の破壊行為につながることなのかもしれません。

しかし、現実との接点を探り、現実との緊張感を保ちつつ創造行為を行うことは、表現者にとって守るべき最低限の倫理なのではないでしょうか?

そんなことを考えて、14年前に、「頓田の森ぴーすきゃんどるナイト」を始めたのです。

さて「記憶とは現在」であると言われます。
記憶をたどっている私は、現在に存在しているわけですから、そもそも記憶行為それ自体が、現在の行為です。
もちろん、人は記憶を思い出すことで、現在を相対化し未来を展望するわけですから、記憶それ自体が、現在と未来を意味づけなおすことなのかもしれません。

毎年3月27日に頓田の森に集う「頓田の森ぴーすきゃんどるナイト」とは、年に一度戦争悲劇の記憶を改めて想起しなおすことで、現在と未来を見つ直す行為なのです。
頓田の森ぴーすきゃんどるナイトは、そんな集いです
。平和の意識形成と平和運動の土台をつくるものです。

今年も開催します。

【釜】






前人未到か前人未踏か

2021.01.10 (日)

さて、今日は前回使った言葉「前人未到」について述べてみます。

じつはブログにアップして、一つ反省したことがありました。「前人未到」ではなく「前人未踏」の方が正確な言葉使いではないか、と考えたのです。

「前人未到」では、「まだ誰も達することが出来ていない」という意味になりますが、「前人未踏」では、「まだ誰も歩いたことがない」という意味になります。

もちろん「前人未踏」でも、或る集団なり個人が或る経験の蓄積から、或る高みに至っていなければ、誰も歩いたことのない道など歩けはしません。誰もが、誰かが歩いた道を歩きたがります。
誰も歩いたことのない道は、歩ける力がないと歩けないのです。
その意味では「前人未到」でもよいのでしょうが、やはり正確な言葉使いとはいえないと思うのです。

結成当初から、劇列車は「どんな子どもにも劇を!」と看板を掲げてきました。元々は「あらゆる子ども…」だったのですが、より主張を正確にするために、「あらゆる」から「どんな」へと言い替えているのです。

けれども、この看板言葉は珍しくもなんともありません。
言葉は違えど、いろんな児童演劇の劇団が掲げてきたでしょうし、社会的にも流通しやすい言葉でしょう。

劇列車は、この看板の下で巡回公演を主体に活動してきたし、上演料金やチケット料金も低額に抑えてきました。
これもそれなりの数の劇団が実践してきたことでしょう。
私たちの実践は、他の団体でも行っている実践だったと思います。

しかし、「どんな子どもにも」に「困難を抱える子ども」を含み込んだ時、様相が変わってきたのだと思います。

論理的には、「どんな子ども」に「困難を抱える子ども」を含むことは、まったくまっとうですし、誰でもがそう言うでしょう。

けれども、それを実践課題として正面から取り上げた時、様相が変わりだしたのです。周りをみても、このことを実践課題としている他の集団は見当たらなくなりました。
(これはあくまで表現団体に限定した話ですが)。
ここからが「前人未踏」なのだと思います。

そして、具体的に「困難を抱える子どもへの巡回公演」を企画し、そこに助成もいただいて実現可能となった時、もはや私たちの周りには、類似団体がなくなったのです。
(もちろんこれは、私の見聞の範囲での話です。アンテナは張り巡らしているつもりですが、キャッチ出来ていません。もしかしたら、同じような実践に踏み込んだ団体があってもおかしくないのですが…)。

これはブログで紹介しましたように、「パペットシアターPROJECT」として具体的に動き出しました。無料子ども塾や子ども食堂への巡回公演です。
このことを指して「前人未踏」といっているのです。
私たちは、この企画第一段を成功させて、孵化させていくことに努力していきたいと願っています。

さて、とするならば「前人未踏」とは、いろんな「前人未踏」があるということです。道は違えど、誰も歩いたことのない道を歩くこと、それが「前人未踏」なのですから。

劇列車は、そのような「前人未踏」の域に入ったということです。
誰も歩いたことのない道ですから、自らの理論を構築しながら、道を切り開いていかなくてはならない段階に入ったということです。
【釜】






理論の意義

2021.01.09 (土)

雪に閉じ込められています。外での舞台製作作業も、あまりの寒さに風邪をひいたら大変と一時中断。
そこで、理論と創造と運動の相互関係を考えるために、内田義彦「社会認識の歩み」(岩波新書)を再読しました。

これは「理論の意義について考えるため」というよりも、たまたま再読した本から、「理論と創造と運動」の相互関係を考えてしまったといった方が正確ですが…。

さて内田義彦氏は、経済学史の専門家です。従って彼のいう「理論」とは、彼の専門からいって社会科学理論です。
ですが、文化運動(人形劇運動)である劇列車にとって「理論の意義」を考える際にも、十分有効だと思います。

内田氏は、ヨーロッパルネサンス期のダンテから解き起こします。ダンテの有名な作品「神曲」では、人間とは「賭けることの出来る存在」として描かれます。

つまり、人間が人間である限り自分で決断をし、自分で責任をとらなければならない存在であると描かれるのです。
決断できない人間は、「神曲」では地獄にすら入れない惨めな霊として描かれるのです。
(これはあくまで近代を貫く価値観です。ネオリベラリズムのエゴイズムを正当化するいちじくの葉である「自己責任論」とは全く違うものであることを付記しておきます。もっともネオリベラリズムが、近代の鬼っ子であることも事実ですが…)。

つまりダンテは、神に依存せすに、運命にまかれずに、自ら決断する「個人」という観念を生み出したわけです。これすなわち「近代」の誕生です。いいかえれば、「近代人」の誕生です。

難しく聞こえるならば、
「もののけ姫」登場人物の中で、「唯一の近代人はエボシである。他の人物はアシタカを含めて右往左往しているだけ」と宮崎駿氏がいい放った、あの「近代人」であるといいかえることも出来ます。

従ってというべきか、高校世界史では、ダンテ「神曲」は近代黎明期の作品として教えられますが、これはダンテに対する全く正当な評価でしょう。

けれども、「自分自身の決断と選択は果たして正しいのか?」誰もが不安になります。
マルクスは「汝自身の道を歩め、人をして語るにまかせよ」と言いましたが、実際に決断し選択するとなると、これは不安になりつらいことでもあります。

ですから、「個人としての人間」は、自己と周囲の世界について客観的認識を求めることになったのです。
これが社会認識の端緒であるのです。
内田氏はそういうのです。

もっとも社会認識の端緒とは、あくまで端緒であって、まだ社会科学的認識ではありません。
しかし、その端緒がなければ、社会科学は生まれなかったのです。

こうして考えてみると、社会科学は近代が生み出したものであるといえるのでしょう。

さて理論とは、このように、まずは個人としての自己(または個人の集合体である集団)への客観的認識から生まれるのです。
「決断と選択が不安であり迷いもあるから、それを可能な限り客観的にとらえたい」。その衝動から生まれ、かつ必要とされるものなのです。

言い替えれば、理論は「自分の問題」として出てくるのです。
このことを、自己と集団の再定義作業とも言い替えることも可能でしょう。

とするならば、理論とは近代人にとって必須のものであるといえます。決してお飾りではなく、生きるために必須のものなのですね。

さて、話しを少し拡大してみます。

どんな人間も社会的存在であり、社会制度と切り離して考えることは不可能です。つまり人間は「類的存在」なのです。

例えてみます。
私たちは「人形劇団」ですから、「人形劇団」という呼称で自己了解をし、他者了解もされます。社会存在ですから、どうしてもそうなりますし、それを否定していては活動が成り立ちません。
しかし、それではちょっと困るのです。

なぜなら、社会制度の中に生きるものとして、自己了解、他者了解を完結するならば、そこから一歩も出られなくなってしまうからです。

社会制度の中で「主体的」に考えるだけでなく、「私たち人間が制度を創るのだ」ということになってはじめて、学問や芸術創造が生まれてくるからです。

もっとも内田氏の「社会認識の歩み」の守備範囲は、もっぱら「学問」であって「芸術」ではないのですが…。

しかし、学問も芸術も「社会的網の目の変更行為」としてとらえるならば、精神労働としては同じものであり、方法論か違うジャンルなのです。
(もちろんこれは、粗っぽいとらえ方です。ですがまずは大掴みにとらえた方が、狭苦しい専門化をせずに済みます。狭い専門化は、創造の枯渇につながるものだと思います)。

さてこのためにも、理論が必要とされます。
これは、さっきの自己の客観的認識の理論とはいささか毛色か違います。創造のために社会的網の目という「常識」と「日常性」を食い破るための、見晴台としての理論です。創造は日常性から離陸したところで行われる作業です。
この見晴台としての理論は、芸術ジャンルでは往々にして直観に頼る場合もあるようです。

さて最後に。

学問にしろ芸術にしろ、理論は先人の業績の断片を自らの経験に位置付けていくことからはじまります。本を読んだり、舞台をみたり…。間違ってならないことは、「あの舞台はすばらしい」などの一般的評価を実証するために観るのではなく、自らの眼で観るということです。
これが学ぶということです。

学ぶとは、体系を知ることではなく、断片を自らにつなぎあわせながら「体系的に考える」ということなのです。
そこから次第に、熟成して良酒が生まれるように、自らの体系が生まれていくのだと思います。

このことを、じつは「オリジナリティ」というのです。

さて、雪に閉じ込められている中で生まれたゆとり時間を使って、「理論の意義」について、内田氏の論理展開に従いながら、書き綴ってみました。

劇列車は、理論を必要としています。
なぜなら、運動としての劇列車は、もはや前人未到の域を独りテクテクと歩いているからです。
(断っておきますが、運動とは人数ではないのです。人数がただ多いだけの「うどの大木」的運動が「運動の堕落」を作り出すのを、掃いて捨てるくらい見てきました。人数が少ないからといって自己卑下は全く必要ないと思います)。

そのために、自己への客観的認識として理論構築の必要を痛感しています。

一方で、創造の見晴台としての理論も必要としています。
まだまだ頼りない創造水準であることは自覚しています。
しかし、見晴台としての理論を持たなければ、いつまでたっても前人未到の域に到達することはありえないのです。

【釜】






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