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稽古雑感

2021.06.20 (日)

梅雨晴れの一日です。たまに晴れると、もう夏空ですね。

今日は稽古で考えたことを、メモ書きしてみます。長くなります。

†昨日は、音も明かりも入れない初の素通しを行いました。

原作「どんぐりと山猫」では、一郎くんは影が薄い存在です。そもそもタイトルは「どんぐり」と「山猫」なのです。「どんぐり」と「一郎」でも「山猫」と「一郎」でもないのです。

一郎くんが影が薄い存在だからといって、主人公ではないということはできないでしょう。
物語冒頭と最後は、一郎くんで始まり、一郎くんで終わるのですから。

原作では影の薄い一郎くんは、一体どんな少年なのか?

これを、物語の構造と行間から読みとることが、読者に求められているように思えます。
ですから、脚本では原作で描かれなかった一郎くんの家庭の様子を付け加えてみたのです。

この人形劇を最後まで通してみると、森世界に対する抑圧者である一郎くんは、抑圧的な人間社会の中では、弱者であることが、すっきりとわかってきました。
(だって一郎は、子どもなのですよ。)

さて、抑圧的社会が弱い者に与えるプレッシャーというものがあります。
いろんなことが強制されます。始末に負えないことは、強制する側が強制していると気づいていないことなのですが…。

強制する社会に馴染めない弱者は、強制されることを受け入れなければ、マイノリティになって行きます。社会の片隅に押しやられていきます。
しかし、片隅に押しやられても、人間としての誇りを秘め、それを承認してもらいたい承認欲求を強く内包して生きているのです。

だから、社会の中で抑圧されている人々は夢を持つのです。
この夢とは、なけなしのプライドを懸けている、生きる希望そのものでしょう。

それでは物語のラストに、一郎くんにどんな夢を持たせるのか?
苦しんで来ました。
長いこと、苦しんできました。

やっと昨日、出口に到着したようです。
一郎くんの持つ夢は、安易な白日夢であってはならないはずです。安易な白日夢は、簡単に抑圧的社会によって押し潰されます。

一郎くんが社会との格闘の中で、ボロボロになりながら手離さない夢。
人間としての誇りそのものであり、それをなくしては生きていけなくなる夢。

その夢は、一郎くん自身が見つけるものであり、他者から与えられるものではありません。
しかし、どうしても、一郎くんを夢を獲得するスタートラインにまでは立たせてみたかったのです。
なぜなら、そのスタートラインとは、上述の「希望」そのものなのですから。

その長い創造上の悪戦苦闘。
やっと突破出来ました。いや、突破出来そうな確かな感触を得たという方が正確でしょうか?
充実した稽古でした。

†演技の基本は、サブテキストにあり。

劇中の登場人物たちは、劇の中で生きています。とするならば、登場人物がしゃべる全ての言葉(台詞)は、何らかの感情の上にしゃべっているはずです。

実際私たちは、何らかの感情に立ってしゃべっています。全く無感情にしゃべっているにせよ、その無感情には、無感情を産み出す感情があるのです。

登場人物の全ての台詞に、その発語の土台となる感情を明確にしていくことが必要なのです。
実際、現実に私たちは無意識にそれをやっているのですから。

架空の人物を演じるには、自覚的にその作業を行っていかないと、いつまで経っても、感情の裏付けは出来ません。

サブテキストは、演技の土台であり、相互干渉行為(対話)の土台です。

演劇の面白さとは何か?
それは、サブテキストの土台の上に成り立つキャッチボール(相互干渉行為そのもの)そのものなのだと思うのです。

稽古とは、俳優(人形遣い)の相互干渉行為を構築することです。
それは、それぞれが造ってきたサブテキストを擦り合わせていく行為でもあるのです。
今回稽古で、もっとも重視しているところです。

†人形劇はアニメーションに似ている。

人形劇は演劇の一形態です。そう考えます。
しかし、実際造っていく過程では、アニメーションに似ているところが多いなぁと思うのです。

私はアニメーション製作に携わったことがあるわけではないので、本を読んで想像して、物をいっているのですが…。

しかし、似ていてあたりまえなのでしょう。モノを動かす人形劇にしても、絵を動かすアニメーションにしても、物体を動かすことで成り立つわけですから。

だから、サブテキスト構築、キャッチボール構築だけでは、演劇は面白くなっても、人形劇はそうならない。

モノを蘇生する。
ここも人形劇稽古の大切な部分です。

†いやぁ、大変です。

人形劇を造りあげるには、俳優劇の何倍も時間もお金もかかります。

その事をもって、人形劇製作現場に参入する人が少なくなっていると指摘される方々もいます。

確かにそのとおりでしょう。
一方で、こうも思うのです。

手間暇と苦労を背負って造る舞台芸術と、造形芸術の融合形態。つまり人形劇は、人間の発達可能性を拓く最適な表現媒体ではないかと。

もし、日本人がこの手間暇を厭い、簡便な表現媒体ばかりを好む人間ばかりになれば、それはこの国の精神的滅亡につながると。
(この手間隙をかける対象が、人形劇でなくてよいのは当然です。手間隙をかける地道な行為を厭うことが問題なのです。)

ある新聞である政治学者がいっていました。コロナ禍とオリンピックは、この国の政治(マクロポリティクス)を、常識の範囲外に連れだそうとしていると。いや、この国の政治は、常識の範囲外に出ようとしていると。

確かに。そう理解しないと理解出来ないナンセンスなことだらけです。

そして、上記の政治学者は延べていました。「この国は誰も想像出来ないような動乱期に入りつつある」と。

私からみれば、この動乱がどんな動乱になるのか想像もつきません。
ただそれは「希望」であると見えています。
このたがが外れた政治を許し続ける怠惰な国民であっては、この国は精神的に滅亡していくと思うからです。

話しが逸れてきました。
一郎くんを「希望」のスタートラインに立たせたいと思うのは、私自身が「希望」のスタートラインを渇望しているからなのです。
希望を持ちたくてあがいているのは、私自身でもあるのです。

【釜】






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