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沈黙の文化

2021.05.22 (土)

新作「どんぐりと山猫」の人形が、どんどん出来上がってきています、
新しい人形(モノ)が出来上がるにつれて、「そのモノの魅力的な動きは何処にありや」と、人形をああでもない、こうでもないと動かしてみる時間も増えています。

時間はいくらあっても足りません。人形というモノが魅力的な動きを見せるということは、それが「どう動きたがっているか」という発見がなされているということなのです。

そんなことに忙殺されている(とっても大切なことなのですが)毎日です。

さて考えてみると、劇列車の作品は、いつも多数派に抑圧される少数派の問題を扱ってきたように思えます。

前作「ちょうふく山のやまんば」にしても、その前の「猫の事務所」にしても、「みなしごサキと子天狗こたろう」にしても、ずっとそう。

それはきっと、多数派が「少数派を縛る常識」を振りかざし、少数派を抑圧し断罪する局面に、私自身が何度も何度も遭遇してきたからなのでしょう。

もっとも抑圧し断罪を行う相手は、抑圧し断罪をしている自覚すらないのかもしれません。
少数派を常識はずれと見なし、善導しているつもりなのかもしれません。

差別をする相手は、差別をしていないと言い張るのです。それは、言い逃れをしているのではなく、本当に自覚がないのだと思います。

そこで、多数派と少数派の問題を、少し考えてみたいと思います。

さて私の嫌いな行為は、当人ではなく第三者に対して「あの人変わってるよね」と言う行為。
それは、第三者に同意を求める感情、第三者と自分が同じであることを確かめ、変わっているといわれる当人を排除する感情、それらに支配されていると思うからです。

私の嫌いなものは、家父長制的権威主義。
人間と人間の関係が、ボスと子分という形で形成されてしまう。そこから民主主義は生まれないと思うのです。

さて視点を変えてみます。
「政治」には、マクロポリティクスとミクロポリティクスがあります。
ミクロポリティクスの次元では、抑圧的な支配ー被支配関係や権力と服従の関係が、一見私的な人間関係として現象します。

それは確かに人間関係のあり方であるのですが、ミクロポリティクスの視点を持つと、事態が鮮明に見えてきます。

劇列車の作品は、視点を変えれば、このように抑圧的なミクロポリティクスの世界を描いてきたように思うのです。

では、それは何故なのでしょうか?

その答えは、「抑圧的なミクロポリティクスの世界での身銭を切り血を流す闘いなしには、社会がよりよい社会になることなどあり得ない」と思うからということにあります。

マクロポリティクスの世界での闘い(通常私たちが政治闘争と言っている行為)は、ミクロポリティクス次元での闘いに支えられているのです。

ミクロで闘えないならば、マクロの闘いは大変脆弱なものになります。所謂「地に足がついていない」ということになりかねないのです。
地に足がついていない闘いは、簡単に足元をすくわれます。

「世界で一番貧しい大統領」というドキュメンタリー映画を見ました。
ウルグアイでの政治闘争から生まれたムヒカ大統領。
この映画の中でしゃべる彼の言葉でもっとも印象に残ったのは、「社会主義的な政府の樹立(政治闘争)よりも、人の心を変える方(文化闘争)が難しい。こんなに難しいとは思わなかったよ。だから文化革命が大事なんだ。」という言葉です。
(正確な引用ではありませんが…。)

これは抑圧的なミクロポリティクスが抑圧的な人間関係として現象し、抑圧的な支配ー被支配関係が、抑圧的な文化によって正当化されてきているからなのではないしょうか。
正当化されているものに抗うのは、なかなかに困難です。だから難しいのでしょうか。

政治闘争の勝利で政治的な重しを取り除かれても、心の重しはまだそのままなのです。
だから政治闘争に勝っても、人々は支配ー被支配関係を正当化する支配者の文化を内面化したまま生きているのです。
ということは、マクロポリティクスの闘いは勝利しても、抑圧的なミクロポリティクスでの闘いには手がついていないということでしょうか。

そのような人々のことを、パウロ・フレイレは「沈黙の文化」にがんじがらめになっていると言ったのです。
そんな人々は、自己解放を求めるよりも、自分を支配してくる「ボスのようになって、ボスのように振舞いたい」と思うのです。それが彼らの夢となるのです。
ボスの価値観を、心に内面化すると、その方が安心出来るのです。自己解放に恐怖するのです。

ムヒカ大統領は、だから文化闘争の困難さを言い、文化革命の大切さを言ったのでしょう。

ミクロポリティクスの変革は、ムヒカ大統領に限らず、フレイレの実践など南米で注目されてきたように思われます。

私たちはそれを「現代日本の多数派と少数派の問題」として描いてきました。
それは南米が好きとかそういうことではありません。
私自身が、現代日本のミクロポリティクスの世界で、息をしずらいためであったのです。

「沈黙の文化」は、何も南米だけにあるのではありません。
21世紀の日本にもあるのです。弱まるどころか、むしろ現代日本における「沈黙の文化」は、強まっているように感じます。それは、私だけの印象でしょうか?

ここで「沈黙の文化」について、まとめて簡単に記しておきます。

それは、ブラジルの識字運動の指導者バウロ・フレイレが指摘した文化概念であることは、上述しました。
ブラジルの民衆文化に色濃く「沈黙の文化」があることを、フレイレは指摘したのです。

軍事独裁政治下、ブラジルの民衆は、農園のボスに従順でした。従順でなければ、ボスの組織する私的民兵たちからひどい目にあわされるからです。民兵の暴力は、政府の暗黙の承認によって、野放図でした。

そうすると、民衆はだんだん物を言わなくなっていきます。物を言うと危険なのですから。
「沈黙の文化」は、そうやって強固な文化に育っていったのです。

それでも民衆は、物を考えなかったわけではないでしょう。
しかし「話すことが出来ない」「話すことが憚られる」状況下では、恐ろしいことにだんだんと物を考えなくなるのです。
そうして、支配者の価値観を内面化していったのです。

ボスを倒すよりも、「ボスになりたい」と思うようになるのです。

フレイレの識字運動は、「私は何を考えているのか」を自覚してもらうことからはじめる運動でありました。
彼は言います。「私が何を考えているのか」を自覚することから、人間化の過程がはじまると。

フレイレのいう人間化とは、自尊感情を持ち他者を尊重することの人間になること、それだけでなく変革力を持った人間になることだと理解できます。
これは巷に溢れる通俗道徳ではありません。
自らが勝ち取る「認識の広がり」と「感性の変革」から生まれるものなのです。

さて話を戻しましょう。私たち国にも「沈黙の文化」は確かにあるのだと思います。
「話すことが出来ない」「話すことが憚られる」状況は、私たちの回りにもたくさんあります。

例えば、学校における国歌強制問題に、どれ程の教師が批判の矢を放ってきたでしょうか。

「あなたは気持ちよく歌っているだろうが、私には苦痛だ。私の精神の自由が侵されていると感じる。とするならば苦痛な生徒もいるはずだ。彼らは隠れている。隠れているからいないというわけではない。あなたは私の足、隠れた生徒の足を踏んでいる。そのことに気付け。」

そんな風に公に言い、行動することは、大変に危険な行為です。
東京都の例に見られたように、教師である身分すら、奪われかねない。
ですから、心の中ではそう思っていても「沈黙」してきた教師が多いのではないでしょうか?

ほんとうの心の真実は、しゃべってはならないことになったのです。
ほんとうの心の真実をしゃべることが出来ないと、教師は仮面(ベルソナ)を被りはじめます。

そこには、確かにフレイレのいう「沈黙の文化」が生まれています。
沈黙の文化が強固になればなるほど、教師は物を考えなくなります。恐ろしいことに、「考えていない」ことに気付けなくなって行きます。

そんなことは学校だけでなく、他の場にもたくさん、それこそ日常的にありふれていると思えるのです。

私たちの日常的な人間関係を、ミクロポリティクスの視点からみてみると、私たちの住む日常世界は抑圧と精神的暴力、構造的暴力に満ちています。

固まってしまった抑圧的なミクロポリティクスを解きほぐし、新たな対等で自由なミクロポリティクスの世界を探りたいと思うのです。
(これは昔から「箸の上げ下ろしに自覚的になれ」と、平易な言葉で言われてきたことです)

そのために下手ながら、「恥はかき捨て」とばかりに、作品をコツコツと創ってきたのです。
そうしなければ息が出来なかったから、そうしたのです。

「対等で自由なミクロポリティクスの世界」とは、もしかしたら見果てぬ夢なのかもしれませんね。見果てぬ夢とは永久革命のことなのかもしれません。

物事を近視眼的に損得でみることに慣れている私たちは、「見果てぬ夢には価値がない」と考えてしまいがちです。
しかし稀有の政治学者丸山真男氏(故人)はこう言っているのです。
「民主主義自体がそもそも永久革命だ」と。

私たちは、つい永久革命を遠い世界のことと感じてしまいます。
しかし、丸山氏によると「永久革命」とは、民主主義という見果てぬ夢を追って日々を生き、ミクロポリティクス次元での民主主義の闘いを恐れずにやり続ける行為のことなのでしょう。

見果てぬ夢には、皮肉や絶望は無縁です。
永久革命とは、見果てぬ夢を追いながら、日々の闘いを誠実に闘うことなのだと思います。

最後に。
私たちの作品は、そんな精神性に満ちた作品であると思っています。

作品は私たちが息が出来ないから創るのであり、息が出来ない人々と一緒に息が出来るようになりたいと思うから、創るのです。

これは私たちの作品に対する自信過剰なのでしょうか。確かにそうだといえます。
しかし、私たちの作品づくりの動機には嘘偽りはないのです。
とするならば、私たちの動機と作品との間に、まだ不均衡があるということなのでしょう。

だから敢えて、恥を覚悟して作品づくりの動機を主張することで、自分たちをのっぴきならぬところへと導くことも大切ことだと思ったのです。

のっぴきならぬところへと自分を追い込むことで、動機と作品の質的一致を生み出したいと思うのです。
【釜】