ドラマダイアログと対話研究会

           

新緑あざやか

                対話はトレンディ?

 いま対話が、熱い注目をあびています。
その証拠に、対話技法について書かれた数々の書籍が出版されているようです。
 しかし「対話とは何か?」という対話の本質(または目的)について、その回答が書かれた書籍はあまり見当たりません。
 なぜなのでしょうか?

 もしかしたらそれは、対話の目的はそれを実践する主体が見つけ出すものだから、なのかもしれません。もしかしたら、対話の本質については書きようがないからかもしれませんし、いざ書こうとすると哲学(ないしは心理学)的な大著になってしまうからかもしれません。いずれにせよ、対話の本質について述べた書籍は対話技法について書かれたそれよりも圧倒的に少ないという事実があることは間違いないようです。

 では、対話ってなんなのでしょうか?

          対話ってなに?なんのために対話するの?

 ここで消去法で述べてみたいのですが・・・。
対話とは、おしゃべりではない。議論ではない。
ディベートではない。コミュニケーションではない(それを目的としない)。


 では対話とはなんなのでしょうか?
これは消去法のみの活用ではみえてきません。ですから、いま私たちが読み進めているパウロ・フレイレの「被抑圧者の教育学」を引用してみましょう、そこには彼の考える対話の本質(あるいは目的)が、きわめて明確な回答として書かれています。

その回答は「意識化」ということです。それが対話の本質であり目的だと。

「ここに答えがある!」と喜んで、ちゃっかりフレイレの回答を拝借してしまいそうですね。でも、それでは早計であり危険すぎます。

もう一歩踏み込んで考えてみましょう。
すると「意識化ってなんなの?」
そんな問いがたってきます。そうなると、
・・・えっ?
???
それは・・・

と、とたんに答えに窮してしまうのです。

 ここが大切なところです。答えに窮した自分がいることに気づく。そこでやっと、私たちは彼の著書の土俵にあがることが出来ます。「価値ある学びがはじまるぞ!」と「可能性をつかむスタートライン」に立つことが出来るのです。ですからパウロ・フレイレに即効性ある回答を求めて飛びつくのは早計すぎですし、もったいないのです。

 もう少し述べるならば、彼の「意識化」という回答を、仮にちゃっかり早々と拝借したとしてみましょう。すると、次に高いハードルが待っていることが容易に想像できます。そのハードルとは、「理解する」と「わかる」は違う次元にあるというハードルです。「わかる」とは、自分の身体でわかり自分の言葉で言語化できることです。そうでなければ「わかった」とはいわないのです。つまり安直に回答に飛びついても、飛びついた本人にとっては、「回答を暗記した」以上のものにはなっていないということです。

 何が言いたいのかというと、安直で早計な学びでは、実際の対話現場では無力だということです。現場で、早々にからだにわかっていない知識のむなしさにほぞを噛むことになります。それを危険すぎると言っているわけです。

             演劇とドラマダイアログ

 いったん話を変えてみます。演劇についての話です。演劇は社会や人間を別の角度からみたり、みえなかったものを白日の下にさらけだしたりします。それをドラマの力で生み出し、鑑賞者と共有しあう性質をもったアート(芸術)、それが演劇です(私はそう考えています)。

 その前提に立つならば、劇をみて「あぁ、よかった」という感想をもって自宅に帰る、これは観劇行為のゴールでしょうか?このことは私がずっと抱いてきた素朴な疑問です。

 演劇とは作り手と鑑賞者が同じ場を共有するアートです。ですから、作り手から提示されたものに何かを感じとり、それを一人で自宅に持って帰って反芻するだけでは、尻切れトンボ感を感じます。もちろん感想を独り占めして帰るのも悪くはありません。一人で思いをそっと持ち帰るのも、ステキなことです。しかし、場に集ったみんなで協働してつくりだしたものを個人で占有してしまう居心地の悪さを、少なくとも私は感じてしまいます。

 ですから、劇を共有した観劇の場で、参加者それぞれが感じとったものを土台にして参加者同士の対話を試みてみよう。そんな試みがドラマダイアログです。ではドラマダイアログの何たるかをを述べてみます。

ここでまた消去法を使ってみますね。

 ドラマダイアログは批評の場ではない。(そもそも「批評は批評される側だけでなく、批評する側も問われる行為である」といった相互緊張感なしには、批評の場は生産的な場になりません。)

 ドラマダイアログは感想の出し合いの場ではない。(感想は、感想を言う人の文化資本獲得の程度差を反映していまいます。ですから感想を人前でしゃべることを嫌がる人が多いのはあたりまえです。感想の出し合いは、文化資本獲得程度で「みえないヒエラルヒー」を生んでしまう危険に満ちています。ですから、私たちはドラマダイアログを感想の出しあいの場にすることを慎重に避けています。)

           ドラマダイアログとはなんなの?

 ではドラマダイアログとはなんなのでしょうか。ドラマダイアログとは、観劇の場を共有したみんなで、一緒になってそれぞれの気づきを生み出しあう行為です。そう考えています。ここで使った「みんなで一緒になって」という言葉に、そこに生み出されてしまいがちないわゆる「同調圧力」の危険なにおいを感じとることも可能です。私たちもそう感じます。私たちはみんなが集った場に、見えない同調圧力を生み出したくはないのです。

 ですから「みんなで一緒になって」という言葉を再定義しています。「みんなで一緒に」という言葉を、「みんなで同じ場を共有しつつ、一人ひとりでいることが保たれている状態」と再定義しているのです。実際にその再定義のうえに、私たちはドラマダイアログをつくってきました。だからか、同調圧力がなく(ないしはそれが最小限にとどめられて)、私たちをふくめて参加者は、ドラマダイアログの場で「つながりながら一人でいられた」ように思えてなりません。

 つまりドラマダイアログは、観劇によってそれぞれの気づきを協働のちからで生み出す行為。対話の場は、協働してみんなが一人でいられる状態を創りだすものということができます。

           もっと解像度をあげるために学ぶ

 以上が、ドラマダイアログに対する私たちの現在認識の到達点です。けれどもここで安心していいわけではありません。なぜなら・・・、

 気づきということばを使いましたが、「気づき」ってどんなこと?どんな状態になることを「気づき」っていうの?

 そう考えてみると、まだまだあいまいなのです。「気づき」をめぐって、私たちの内部討論もまだ不足しています。

 ドラマダイアログでは誰でも参加でき、誰でもが安心して、誰でもが自分の主人公となることができます。ブログをお読みのみなさんの中には、難し気なことを長々と読まされた印象をお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんが、実際の現場をごらんいただけると全くそんなことはありません。小学校1年生から70歳台の方までが、ともに語り合っています。大切なことは、そのような場を恒常的に安定していつでも創りだせることです。  そのために研究と研修が必要です。それが対話研究会なのです。パウロ・フレイレを読みあい学びあいからはじめた対話研究会。まだはじまったばかりです。

(画像は、新緑に囲まれた私たちのアトリエ、山猫舎)

新緑に囲まれた私たちのアトリエ山猫舎。樹木に隠れた山小屋風建物がアトリエです。