新しい観劇スタイルの提示

昨日3月17日、P新人賞受賞記念久留米公演「さちの物語~一番言いたくないことは一番聞いてほしいこと」を無事に終了しました。

お越しになった皆様、当日ご都合がつかなくとも応援等いただいた皆様、どうもありがとうございました。

そして、お越しいただいた市民活動団体や久留米市男女平等推進センターの皆様、どうもありがとうございました。

当日の様子を少し報告してみます。

午前のゲネプロにいらっしゃった「さぽちゃい」(DV被害を受けた子ども支援団体)のH様と、
ゲネプロ終了後にいろんな話が出来ました。

この劇の主人公田中さちのような現実の子どもについておしゃべりしていた時のこと。

「その子はね、田中さちのようにものすごく頑張るのだけど、この頑張りがDVで受けた心の傷なんだと思うんだよね」。

「支援者はね、こんなに支援してるのに何でわかってくれないの?って思う時がある。これが支援者のはまり勝ちな落とし穴なんだよね」。
(意訳すればこういう趣旨の発言でした)。

それは、いちいち頷くことが出来る発言でした。
その通りなのです。

支援者と被支援者は対等です。
ですが支援を受けることが、被支援者にとって屈辱的に思えたりすることもあります。

被支援者が支援を屈辱的と感じとるのは、その方の人間としての矜持がそうさせるのです。
その事を踏まえて支援に取り組むこと。
これは支援活動の基本原則だと思います。

対話のひろばに参加された皆様からも、様々な発言が出されました。

「被害を受けた当事者が、その被害について言葉を発することはとても大変。そして言葉を発した後、自分を編み直していくこともとても大変」。

「自分を編み直す」

凄く素敵な言葉です。
この言葉は、自己回復のことを指しているのでしょう(そう思いました)。

「自分を編み直す」。

この素敵な言葉から、対話を深掘りをしていくことも可能だったでしょう。
「自分を編み直すって、どんなことですか?」と。

でも、その深掘りはしなかったのです。
絞り出すような声で(そう聞こえました)、絞り出された言葉。
ファシリテーターをしていた私は、その重みをきちんと受けとめていました。
でも深掘りしなかった。

深掘りすれば意図せず傷をえぐることにならないか。
そんな恐れが、心の中にふとよぎったからなのでした。
けれど、それは正しい選択だったのか?
後で何度も反芻しました。

他にもあります。
現実に困難を抱えた子どもに体面してある大人の方から、アドバイスを求められた発言。
対話の場は個人相談の場ではないため、それをスルーせざるを得ませんでした。
でも後から思ったものです。

対話のひろばで出された困り事に応えられるメンバーを用意しておき、いつでも相談に応えられる体制を整えておく対話の場ももありだな、と。

それだけ質感ある発言が続いた対話のひろばでした。
質感ある発言が続けば続くほど、ファシリテーターの瞬間の判断が問われます。
参加された皆様、拙い進行にお付きあいいただき、ほんとうにありがとうございました。

最後に、上演について述べてみます。
この作品の上演が、表現として高いレベルに達していることを改めて感じた実感がありました。
その根拠はここでは書きませんが、それを感じとったのは事実です。

そもそも表現行為はとても苦しいもの。
例えるならば、まるで厳冬の冬山に登るような、と言えるもの。

その苦しみの本質は、ある言い方をすれば「試行錯誤の苦しみ、自己を見つめて深く掘り下げていく苦しみ」です。
この出口が見えない苦しい時間に耐えること。
そこから何かを生み出すこと。
それが表現するという行為です。

そうして生まれた表現が人に伝わる時、表現者は至福に包まれますし、そうでない時は深く絶望してしまいます。
苦闘して練り上げた表現であればあるほど、至福も絶望も深くなります。

表現行為のそんな宿痾に腰を据えること。
そもそもそんなものだと、腰を据えること。
それが表現者としての覚悟なのでしょう。

誤解しないで下さいね。とてもよい上演だったのですよ。
だからこそ、ふとそんなことが頭をよぎった上演でした。

あぁ。
これも大事なことだな…と。

いささか個人的な報告にになってしまいました。
とにもかくにも、今回の公演では観劇と対話のひろばをワンセットにした「新しい観劇スタイル」を、本格的に提示出来ました。
それが鑑賞という行為の豊かな可能性を拓いたことも事実です。
会場にお越しくださいました皆様に、厚く御礼申し上げます。

【釜】